毎日新聞社客員論説編集顧問であった橘善守氏は

若き日青雲の志を抱いて東京を目指した時の事を

「大正12年5月のある朝、郷里から東京への最短距離を、

私は、わらじばきで栃木県川俣へ出る引馬峠を越え、

西沢金山の廃鉱跡の道なき道を歩いて、戦場ヶ原・中禅寺湖、

そして馬返から電車で日光に出た。川俣温泉と日光に各一

泊、翌朝日光から上野行きの汽車に乗った・・・」

と記している。

車など無かった当時は関東と奥州の分水嶺である帝釈山脈を

越していくことが一番の近道であったという。

30年程前、若かった私は、この帝釈山脈の鞍部を越え一人

この道を会津目指して歩いていた。

いい加減歩き疲れた時、初めて目にしたのが、

この水引の集落だったのです。

藁葺屋根の30戸ばかりの集落はまるで夢の中で出会ったかと

思う程に美しいものでした。

「水引」という名を聞いただけであの頃のことが甦ってきます。

学生時代から興味をもっていた民俗学に傾倒していた頃で、

特に木地師の調査で何度も会津を訪ねておりました。

木地師たちはブナの木を伐採し、椀の木地を作り田島ー若松へと

運んでいた。

南郷村の東部落の奥の戸板に39年、針生の戸板沢に11年、

その間も原料を求めて移動を繰り返す、

落ち着いたのは寛政7年のことといわれている。

終戦後は昭和27年舘岩村八総地内の高杖原に全戸開拓民として

移住している。

江戸時代の銘の刻まれた墓碑や石仏をはいつくばって捜し歩いた

若きあの頃の自分に出会っているのだろうか。

懐かしさがこみ上げてくる。

「あんた何探してるんだい」

何処から現れたのか一人の婆さまが声をかけてくれた。

若かりし頃の話をすると、丁度いい話し相手が出来たと

思ったのか延々と話が止まらない。

「三十年前と今も31戸の軒数は全く変わってないよ、

 でも老人ばかりで十軒は一人暮らしだな」

そういうHさんも一人で住んでいるという。

夏はいいのだが冬の雪下ろしはどうにもならない、

村の人の協力なしには生きていけやしないのだ

と切々と話すのでした。

「ここも都会も同じだよ、都会の一人暮らしの

  老人の方がもっと孤独かもしれないよ」

Hさんは

「そんなもんかね」

と寂しそうに笑った。

一日中話し相手は猫だけだと念を押すように猫の名を呼んだ。

「何でも自分でやらんと生きていかれんから」

と自作の畑に入っていく。

「食べていかんかね」

手に美味そうなナスときゅうりを抱えていた。

細かく刻んで塩もみしたところへ茗荷の千切りを加えた

即席のおしんこの美味いこと・・

「確か昔この水引を訪ねたとき、爺様が美味しい湧き水を

 飲ましてくれたのだけれど、その場所が分からない」

と尋ねると

「そりゃ、お宮の前の清水に違いなかろう、

 今も村の人たちは飲み水として使っているよ」

橋の手前を左に入ったところだと教えていただきお礼を言うと

早速訪ねてまいりました。

今もその湧き水はこんこんと溢れ、

音を立てながら流れておりました。

手のひらですくい、飲んでみる。

甘くて美味しいその味は、あの時飲んだ水そのものでした。

立ち上がると大きな深呼吸ひとつ。

紛れも無く昔の自分に出会っている旅の途中です・・・

2004年07月22日(木) 会津舘岩村 水引にて