相州大山をまじかに望む山里は独特の春を感じさせる風が

通り過ぎていた。

どうやらそこは首塚の森と呼ばれているらしい。

此処を探し出して訪ねたのは、やはりあの千年の大樹が

ひとりの若者を歴史の中から浮き上がらせてしまったからに

違いありません。

鎌倉鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れたという報は瞬く間に

日本中に知れ渡った。

そこには単なる銀杏の木が枯れて倒れたという意味ではなく、

あの若くして権力争いの中に消えていかざるを得なかった

源実朝の姿をもひきずり出しながらあの銀杏の大樹が倒れたのです。

二代将軍兄頼家に代わって将軍職を継いだのは頼朝・政子の次男千幡、

十二歳で征夷代将軍となり、後鳥羽上皇より実朝の名をいただく。

十三歳で京都の貴族の娘を妻にした。

十三歳の少年が政治的な配慮が出来るはずもなく、母政子、叔父義時の

意のままに擁立されていく中で、歌にその生きる意欲を注ぎ込んで

いったのはその立場からいえば、至極真っ当な生き方であったかも

しれません、しかし実朝の意志とはうらはらに、権力の抗争の中に

巻き込まれていく姿は、涙無しには語れない話しではないですか。

北条政子にとっては実の息子の命を、孫の手によって絶たれるという

壮絶な事件が起きてしまうのは、運命というより人間の欲望の果てのなさ

を感じてしまうのは私だけではないでしょう。

建保7年(1219年)1月27日、雪が二尺ほど積もる八幡宮拝賀の日、

頼家の遺児公暁によって八幡宮本殿石段の下で、実朝は惨殺され

28歳の生涯を閉じたと歴史は伝えている。

公暁によって持ち去られた実朝の首はその後行方知らずのまま、

翌日には勝長寿院に葬られたという、そのあまりに早い処置の仕方に

その後、多くの疑問が残されることになるのです。

実朝の墓は勝長寿院が消滅した後、母政子とともに寿福寺の唐草やぐらの

中に五輪塔として今の世に伝わっている、しかし、あの行方知らずに

なったはずの実朝の御首(おしるし)は鎌倉からそう遠くない

丹沢山麓の山里に今も残されているのです。

首塚の森と呼ばれる静かな墓地には今も実朝の霊を慰めるように

五輪塔が残されていた。

そこにはこんな物語が記されている。

『三浦義村より公暁を討ち取る命を受けた武常晴は、
 偶然に、実朝の首を得ることができました。
 常晴は、三浦氏と仲の悪かった波多野忠綱を頼り
 秦野の地に来て実朝の首を埋葬した』と。

歴史の真実などと言うものは判らないことが当たり前で、

最もらしく語ることの方が所詮無理というもの、

書物に書かれてあるから正しいなどと言うのは笑止千万、

歴史書とは勝者の歴史であって、勝者の不利になることは

全て闇に葬り去られるのが定めというもの。

義経は実は平泉にて討ち取られたのではなく、逃れ逃れて

蒙古まで逃げ、別人としていき続けたという伝説さえ生まれるのが

歴史というもの。

もしかしたら、実朝はあの雪の降りしきる八幡宮の中から、

首なし遺体と摩り替わって、この秦野の山里で隠遁生活を

送ったのではないか・・・

ふとそんな想像をさせるほどのどかな山麓で春の風に吹かれていると

実朝の夢は心置きなく歌詠みに明け暮れることではなかったのか・・・

首塚の森の目と鼻の先に、臨済宗建長寺派大聖山金剛寺はあった、

実朝の三十三回忌に、波多野忠綱が金剛寺を再興し

菩提を弔ったと伝えられている。

本堂には、源実朝像が安置されている。

 梅が香を 夢の枕に さそひきて
  さむる待ちける 春の山風

 木のもとに 宿りをすれば 片しきの
  我が衣手に 花はちりつつ

 散りのこる 岸の山吹 春ふかみ
  この一枝を あはれといはなむ

 ものいわぬ 四方のけだもの すらだにも
  あはれなるかなや 親の子をおもふ
        右大臣 源 実朝

今も実朝の声が聞こえる丹沢山麓にて