日本人とは昔から季節の移ろいにことのほか敏感なの

でしてね、

中でも寒く長い冬を過ごしてきた身には、春を待つ喜びが

溢れているのです、

その象徴が花、中でも桜にはさまざまな想いを託す

のでしょうね。

そんな想いを「春愁」という言葉で言い表すのです、

春の愁い、なんと優しい言葉でしょうか、

実は安土桃山時代の連歌師里村紹把の書いた

「連歌至宝抄」の中に

「春も末に移りいけば 徒ちに散りゆく花を見ても

世の中の 儚きことを観じ・・・」

なんていう表現がみられるのです。

特に桜のはらはらと散るさまは、人のこころに愁いを

起こさせるものだと認識されていたのですね。

咲いた花は必ず散ると判っていても、なぜ桜だけ特別な

愁いを感じるのでしょうかね。

同じ花が散っても、椿の花のように ポトリと落ちていく

花には逆に縁起が悪いなんて感じてしまったり、

梅の花のように香りが優先される花は、散り際など見向きも

しないのですよ、

それほどに散る花の儚さを感じさせる桜とはなんと美しい

ものでしょうか。

桜が咲き始めると、もう散り始めることが気になってくるのです、

何も満開ばかりがいいわけではないと判っていても、

満開はいよいよ散りはじめの基点になることを誰も知っているから、

散り始める前に、その美しい花の姿を眼に、心に焼き付けようと

そわそわと桜の周りで見上げるのです。

昨夜の雨はきっと花散らしになってしまっただろう、

眼を覚ますと近所の氏神様をお訪ねいたしました。

子供の頃から親しんでいた境内はまるで雪の朝のように

花色に染まっているのです。

敷き詰められた桜の花びらの上を踏んでしまう、

足の裏が痛い!

桜の別れの儀式が始まっていたのかもしれない朝の光の

中で、歩くことも出来ずにただただ見つめるだけ・・・

振り向くと朝の散歩に来たと言う老人が

「これはでは歩くことができませんな」

私は黙って頷くだけでした。

「こういうのも一期一会というのでしょうな」

氏神様には遠くから手を合わせていた朝の散歩の

途中でございます。