春ごとに花のさかりはありなめど

  あひ見むことはいのちなりけり

       読人知らず 古今和歌集

「日本書紀」の衣通郎姫に始まった桜精たちは、

「万葉集」の桜児説話、「源氏物語」の花宴の朧月夜君へ

さらに「花筐」の照日前の狂気の舞いへ、

さくらを美しい女性になぞらえたのは

この国の男達の優しさだろうか、

丸々二日、冷たい雨は降り続いた

いつもの年なら桜を待って動き始めた季節を迎えたというのに

一向に動こうという気が起こらないのはどうしてだろうか

もう三十年以上も続けてきた桜旅である、飽きるというのは

当てはまらないだろう、

「さくらが咲いた」気配を感じたなら、たとえ冷たい雨が

降ろうがさくらの元へ出かけない日は無かったのに・・・

ひとつだけ想いあたることがある、

それは、さくらが咲くことを待つのではなく

そのさくらの持つ奥深い桜精に

どうしたら逢えるかではないか

何もさくらが咲いたといって急ぐ必要はない

もう、さくらを見るだけの数を競うことは

無意味だと感じ始めたということなのでしょう。

日本のさくらはもうその大部分が、人間の手によって

植栽され、自生のさくらはほとんど消え始めているらしい、

ならば、人の手によって植栽されたさくらこそ何らかの物語を

持っているはずではないか、

さくらは生長の早い樹木です、

50年もすれば想像以上に大樹に姿を変える、

二百年もすれば、もうその起源、誰がどうしてここに植えたのか、

は不明になる、

五百年過ぎれば、もう神の領域になるでしょう、

そんなさくらにゆっくりと話しかけてみる桜旅が

年老いた旅人には相応しいかもしれないですね、

雨上がりの朝、必ず訪ねる伏せ姫桜も、妙行寺の枝垂桜も

止めよう、今、一番逢いたいさくらだけを気の向くままに

訪ね歩いたら、きっといつもと異なる

さくらの本性に逢えるかも知れないから、

さて、どこへ行こうか桜旅、古人が美女に例えたさくらに

逢えるかも知れない予感のままにゆっくりと歩き出すと

いたしますかね。