雨が止むのをただひたすら待ち続けていた。

諦めかけていたのを見透かしていたようにその

冷ややかな雨が上がった。

「この霧では無理かな」

行くだけ行ってみようと谷に向かって歩き出すと

すぐ目の前のミズナラの木の枝からヒグラシが鳴き始めた、

それが合図だったのでしょうか、

その先の欅の枝からも、イヌカシの枝からも

一斉にヒグラシの鳴き声が・・・

霧の中から聞こえてくるのは正にヒグラシのオーケストラ

日本中のヒグラシが全てこの谷に集まってきたのではないかと

思うほど

「カナカナカナ カナカナカナ」

生まれて初めてです、

こんなに一度に沢山のヒグラシの鳴き声を聞くのは。

霧の幕を通り抜けたのでしょうか、何時の間にか霧が消え

あの美しい瀧が轟々と飛沫をあげて流れ落ちる様に思わず歓声を

あげておりましてね。

誰も居ない見晴らし台から夢中になってシャッターを切っていたため

隣に人が居たことに気づかなかったのです。

まさかいくら見知らぬ人とはいえ、二人しかいないこの場所で

挨拶もしないというのも何だか不自然な気がして

「あのヒグラシの声を聞きましたか」

「ええ、あんなに沢山の鳴き声を聞いたのは初めてでした、

目を瞑って歩いたりして」

と若い笑い声を上げた。

「あたし、久し振りの休みをとってやってきたのですが、

此処に素敵な瀧があるから観ていくといいって教えられたんです」

どうやら仕事ばかりの生活に行き詰っていたらしい、

思い切って東京を飛び出して来て、こんな夢みたいなところに

来られてよかったと瀧を眺めながらポツリと話し始めた。

「人生はさ、良いことも続かない代わりに、悪いこともそう長くは

続かないものだよ」

その若い娘さんは、頷くと

「明日からまた仕事さ、今日いいことがあったから、

 仕事がつらくても 仕方ないよね」

瀧の音までかき消されるほどのヒグラシの声を聞きながらそう答えると

「おじさんありがとう、東京へ帰るよ」

彼女は飛び跳ねるように山道の階段を登ると山陰に消えていった。

若いっていいな・・・

アタシはゆっくりと来た道を帰り始めるのでした。

ヒグラシの大オーケストラは最後のクライマックスのように

大合唱で送ってくれましてね。

もしかしたら、あの霧の谷は 蜩の谷だったのかもしれないな。

すれ違ったのは若い二人、

「コンニチハ」

きちんんと挨拶していった二人にも、ヒグラシの声がまるでシャワーの

ようにふりそそいでおりました。