まといつくような湿気にへきへきとしながら大都会の喧騒の中に

身を晒していると、このまま息が出来なくなるのではないか

と思えてしまう。

まして目の前が喧騒の音と光で溢れかえっていれば、

イヤなことばかりが目に付いて、イライラし始めるのです。

気の短い年寄りってヤツは、躾のされていない犬みたいなモノで

どうにも扱いにくいのでありますよ。

「こりゃこのまま都会にいると心が壊れそうだ!!」

こういう日は、どこか静かな森の中に駆け込むに限るのですよ、

旅が人との出会いのチャンスだと思えれば、鎌倉や京都のような

有名観光地を訪ねれば我逢人になれるやもしれませんが、

平常心を取り戻したい気分の時は

「鎌倉はきっと人で溢れかえっているだろうな」

旅の人生長くやっていると、蓄積された情報が次から次と

駆け巡るわけで、なかなか冷静な判断が出来にくいものなんですね。

そういえば禅の言葉に「放下着 (ほうげじゃく)」というのがありましたね、

ブツブツ文句なんか言う前に何もかも捨ててしまいなさい

ということらしいのです、

そういわれても身体中にまといついたのは湿気だけではありませんでしょ、

我欲、物欲、食欲・・・

ああ、気持ち悪いほどにまといついているのは湿気じゃなくてこちらでしたよ、

そういえばつい先日も、立ち寄った店でひょいと手にした小さなカメラ、

気が付けばその袋を抱えてニコニコしながら銀座の街中を歩いていたんです。

出来るかどうかを試すのではなく、とりあえずやってみよう というのが

アタシの生き方でしてね、誰かに言われて行動するわけではないので

失敗すればすべて自分に返ってくるので、他人様に迷惑はかからないだろう

と考えるあたりがもうすでに計算が働いているわけで、こりゃ 放下着 は

難しいですよ。

たどり着いたのは両脇に紫陽花の花が咲く参道、

迎えてくれたのは花だけではありませんでね、

「キョッキョ キョキョキョ!」

杉の木立の向こうで鳴くホトトギスに思わず耳を傾けるのです。

人の気配を感じない森の奥へ一本の道が続いている、

かつて若い学僧たちが思索に耽ったであろう檀林である、

時代とともに学窓たちは去ってしまった、しかしこの土地に

その志した精神は今も漂っているように感じたのは

人の気配の消えた自然の中ですれ違った一組の老夫婦の

たったひとことの会話からでした。

「よいことがあるといいですね」

本堂のさらに奥へ歩を進めると、ひときわ目立つ朱塗りの

鳥居が目に飛び込んできます。

岡田。豊田稲荷大明神を祀っている赤い社、

願い事があるとこの社から一対のお稲荷様を拝受し家に大切に

お祀りするのです、

願いが叶うとその数を倍にしてお返しするという風習が今も

残されているのです。

その夥しいお稲荷様の数にもうびっくりするやら、信仰の深さを

思い知るやら、そういえば日本人のお礼に倍返しなどという風習が

残っているのは、各地にある信仰の影響なのかもしれませんですね。

どうやら他にどなたも来る気配はありません、そっと手を合わせていると

森の奥から一条の光、

古人たちは、この光こそ神の後光に違いないとかんじたでしょうね。

何でも理屈で理解しようとするばかりに、ことの本質を感じることが出来なく

なってしまったいうことなのかもしれませんね、

あらためて「放下着」の意味を問うてみる。

差し込む光には理屈などない、

こころを無にしなければ見えてこないことばかり、

そのことを感じられたとすれば、たったひとりで彷徨ってみた今日の行動は

生きていることの証を見つけられたことになるのでしょうか。

しかし、この今の気分がこれから先、続くという保証は何もありませんよ、

東京に戻れば、あっち向いて文句、こっち向いて文句、

そうやっていつかこの世から消えていくのが凡人の生き方にふさわしい

かもしれませんな。

「ああ、瞬間の放下着なり」