遡れば、博多は「那の津」と呼ばれ、太宰府の港町として

発展したのですが、

藤原純友の乱、元寇が襲来した文永の役、戦国時代には

筑紫惟門、立花鑑載等の戦によって何度も焼出を繰り返していた

町でした。

江戸時代になると町人町博多と城下町福岡の住み分けが

行われたのですが、廃藩置県によって福岡藩は福岡県となる

と、その町の名をめぐって、博多と福岡がふたたび争うごとが

起こったとか。

現在は市の名前は福岡、中心の駅の名は博多になっている。

博多駅を降りると、東京から直行してくれば、

「あれ、また東京に戻ってきたのか」

と錯覚するほど、まるで東京そのものの街が広がっている。

かつての港町であった名残は何処にも感じられない、

歴史の中で、何度も焼失と建設を繰り返したこの街の生き方が

作り替えることに何の抵抗ももたないのだろうか。

つい数日前、駅前に陥没事故でとんでもない大穴が開いたが、

たった一週間で何事も無かったように、日常が戻っていた。

さすが博多ですな。

しかし、変貌するこの街にも東京にはない食文化が

残っているのです。

もう昔のことですが、九州の叔母の息子が東京の大学に

通うことになり、我が家から四年間通学することになりましてね、

その息子は、

「おじさん、東京の魚屋は死んだ魚を売ってるんですね」

東京じゃ当たり前のことが、博多生れの青年には不思議に

思えたのですね。

その真実は、博多を訪ねた際に理解できました。

博多の魚料理は活作りが当たり前だったんです。

それからというもの、博多を訪ねる一番の楽しみは

活きた魚を味わうことになってしまったのですよ。

東京に比べると日の入りが40分くらい遅くなるのですが、

街が宵の闇に覆われるころになると、もう勤め人の親父たちは

ヘベれけに酔っ払っているというわけ。

九州人が酒が好きな原因は、もしかしたら自然現象による

環境が大きな要因かもしれませんですな。

あとは、新幹線に乗れば東京へ寝てる間に連れていってくれる

とあれば、有り金はたいて活きのいい魚を所望、

「旨い!生きててよかった!」

と感じるままにアレもこれも平らげて、なんとか東京駅行の新幹線に

乗り込めば、

「ヒロシマ、小倉も良かったけれど、博多はやっぱり本物ですよ!」

と呟いておりました。

(2018年11月の旅の記憶)