遠く海を挟んだ上総の地から眺めた方がこの山の神秘性が

判るかもしれません、

相州大山阿夫利の峰は農業の神、海の神、雨乞い神、

商売神として、 広く信仰の対照でした。

また古来より大山は山嶽神道の根源地であり

数百年の間、神職・修験・僧侶などが入り交じって神仏習合の地として

今に続く信仰の聖地なのであります。

かつて大山への表参道であった蓑毛には山岳信仰の聖地で

あったことを伝える大日堂が残されている。

山を登ることが目的であった青春時代には、

蓑毛は単なる頂上への通過地点、

大日堂は格好の休息地でしかなかったのです、

こうして三十年振りに訪ねてみると、体力の衰えとは逆に、

静か過ぎる山中の気の中に精神の充実さえ感じられるとは・・・

大銀杏に挟まれた仁王門を潜る、もう訪ねる者もほとんど無い

境内には、確かな春を感じさせる枝垂れ梅が微笑むように

迎えてくれた。

大日堂には平安時代に造立されたという一木造の大日如来が

まるでつい今しがた現れたかのような輝きを持って鎮座されている。

その両脇には

 阿閦如来(あしゅくにょらい)、

 宝生如来(ほうしょうにょらい)、

 阿弥陀如来(あみだにょらい)、

 不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)、

密教における金剛界五仏の各如来が居並ぶ様に思わず手を合わせてしまう。

蓑毛山の斜面に沿って御岳神社、不動堂が並び、さらに歩を進めると

大山への旧道に面して閻魔堂が密やかにあった。

堂の扉は閉められている、格子の隙間から中を、

そこは正に闇の世界、地蔵菩薩を取り囲むように十王像が・・・

思わず後ずさりしてしまうほどの迫力で迫ってくるのです。

かつてこの茶湯殿にて自ら即身仏になられた光西上人を忍ぶべき心魂など

持ち合わせていない凡人はただただ頭をたれるだけでございます。

いくらかつての大山阿夫利神社への表参道とはいえ、今からでは

とても頂上まで登る気力も体力もなく、せめてヤビツ峠あたりまでは

とのんびりと登り始める。

春の風は木々を揺らし、春告鳥の声に耳を傾ける、

一時間ほどで西の空が開けた見晴らしのよい地点に出る。

大山は東に開けている山で、東京から房総半島が一望できるのですが、

西側の景色がこれほど美しいとは、思いもかけないことでした。

「ああ、あれは足柄峠、箱根連山の上に

  神々しい富士の峰ですよ」

誰に問いかけるでもなく呟いておりました。

もうどれ程その場に佇んでいたのでしょうか、

全く予期しなかった今日の最後の陽が富士を染め始めたのです。

たとえ千年前の修験者であろうと、防寒着に身を包んだ現代人であろうと、

この光の中に神を見ることは同じではなかったか、

もしかしたら、彼岸の姿を見つけてしまったのでしょうか・・・

 雲はあれど彼岸の入日赤かりし  正岡子規