御酉さまといえば、昔は外套に襟巻きってぇのが当たり前の

服装でしたが、近頃じゃ半袖で汗かいて御参りなんてのが

普通のことになっちまって、

「どうなってんだこの陽気は」

なんて口尖がらせていたのに、それもいつのまにか

「御酉さまは暖かいもんだ」

なんて当たり前になっちまうと、もう誰も

「この陽気おかしくないか」

なんて言わなくなっちまうのですよ。

今年の一の酉はどうせ寒くならないからと少し遠出して

源さんが教えてくれた花畑の大鷲神社へ、

昔は浅草から舟でお参りに出かけた大鷲神社も、今は車ならほんの30分も

走れば御参りできるのですから有難いじゃないですかね。

夕暮れにはまだちょいと早い時刻、

本酉の大鷲神社の参道も隙間が目立つほどの人の流れに

さしもの露天のオヤジさんも気勢があがりませんな。

そこへもってきて、近頃の人は縁起物に猜疑心まで持つようになっちまって、

「そんな熊手でお金が入るわけないでしょ」

なんて真面目な顔で申すのでありますよ、

そんなこと、昨日今日の若造に言われなくたって知ってまさぁ、

洒落って言うのまでまともに受けちまうような坊やには、

人生の機微なんていくら教えたってわかりゃしませんよ、

「これはね、洒落、シャレなんですよ」

人生いつも白か黒しか判断材料がなかったら、みんなへとへとに

疲れちまうでしょうが、なにかやっちゃたら結果がどうなろうと

関係ないのさ、想うとおりにならなかったら

「信心が足りなかったか」って、今度は神頼みじゃなくて

自分で努力すりゃいいだけのこと、

現代は 科学で解明できないものは信ずるに足りず

なんていう風潮がまかり通っちまい、縁起物が世の中の

隅っこに追いやられちまってなんだか悲しい気分でございますよ。

朝顔にほうずき、だるまに熊手に羽子板、招き猫に七福神、

破魔矢に注連縄に絵馬、まだまだありますよ

水引に紅白の幕、スルメにあわび、果ては富士山に鷹に茄子

なんてものまでね。

縁起物なんてものは、気分のものでね、ご利益があるとかないとか

そんなことは関係ないの、持ってるといい気分になれるのなら

それがご利益というものなんですよ。

この世に「オギャ!」と生まれたからには、誰だって幸せになりたい

じゃないですかね、

子供に長く細い飴を持たせて千歳まで生きろと縁起をかつぐのも、

正月に御屠蘇(おとそ)飲んで、御餅を食べるのも、

長寿と健康を願ってのものでしょ。

だいたい縁起物なんてのは、こじつけと洒落がほとんどで

そんなところへ科学的分析なんてのを持ち込んで、ご利益はありません

なんて抜かすヤツがいるけれど、そういうのを 唐変木 というのですよ。

理由なんて判らなくても、なんとなく信じられるのが 縁起物、

ウソだと思うなら、自分でお金出して買ってみるこった、

今日は一の酉だよ、ためしに縁起物の熊手を手にしてご覧よ、

みんなで寄ってたかって、

「ヨーッ!ホレ シャンシャンシャ」と手締めをやるとね、

身体が火照ってきて、じわーっと幸せ気分になれるからさ、

なに、買ったけどぜんぜん元気になれないってか、

そりゃ本当の病気かもしれないからこんなところでウロウロしてないで

早く病院へ行くこった、でも医者は長生きを保証なんかしてくれないよ、

せいぜい冷静な声で

「手遅れです」

なんていわれるのが関の山さ、

そんな科学的裏づけのひとことで元気になれるわきゃないんだよ、

そんな心配事の種拾い集めたって何もいいことなんか起きやしないのさ、

だから縁起物でも手にして

「明日は明日の風が吹くさ」

と今日一日を元気で過ごせたら、それに勝るご利益はないじゃないですかね。

せっかくやってきた大鷲神社、お賽銭奮発して本殿で手を合わせ

旅の無事を感謝申し上げ、巫女さんから小さな縁起のいい熊手を

手渡しされましてね、

「ジーン」と温かな気分が伝わっていた今年の一の酉でございます。