昌泰4年1月、『昌泰の変』によって、右大臣菅原道真は

大宰権帥へと左遷されたところから語らなくては

常陸の天神信仰は始まらないでしょう。

昌泰の変で父道真に連座してその子たち

菅原高視は土佐介

菅原景行は駿河権介

菅原兼茂は飛騨権掾

菅原淳茂は播磨へ流罪

という処分を受けるのです、

ところが道真公には

さらに 寧茂、景鑑、旧風 、弘茂、兼茂、宣茂、淑茂、滋殖

と、学問の神様と呼ぶより、少子化対策をお伺いしたほうが

適切なほど多くの子の名前が出てきてしまいました、

かつての大河ドラマ「風と雲と虹と」(1976年)には確か

高橋昌也さん演じる菅原景行が登場しておりましたね。

常陸の天神信仰はこの菅原景行を抜きには語れないらしいのです、

で、この菅原景行を追い求めて再び私の旅が始まってしまうのは、

好奇心の発露なのでありますよ。

菅原景行はなにしろ1,100年も前の人物ですから、菅原道真公の

次男なのか三男なのかは判別できません、しかし、ここ常陸では

三男三郎景行となっているようなので、三男として続けてみたいと

思います。

駿河権介として左遷された景行の存在は、静岡天満宮の境内に

景行公を祀る小祠「景行社」が今も残されていることで、どうやら

事実のようです、

さて、常陸へ景行がやってきたのは、

延喜九年(909年)従五位上常陸介(日本紀略参照)として下向

したことから始まったようですね。

常陸野の天神様を求めて彷徨い始めたのは、水海道天満宮で出会った

老人の一言からでした、

その教えに従って、訪ねた大生郷天満宮の由縁から常陸の天神信仰は

始まっているようです。

三郎景行の存在を裏付ける社がすぐ近くにあるというので

早速訪ねました。

まるで道真公を思わせる梅の花が真っ先に迎えてくれました。

春近しとはいえ、まだ荒涼とした大地の一郭に確かにその『三郎天神社』は

ありましたが、三郎天神の文字以外は何処にも景行を示す文字は

ありませんでした。

此処を景行縁の地であるという何らかの伝承があったのかどうか

全く不明です。

天神とは天を司る神、地祇に対する天神(あまつかみ)として祀られて

いたはずの神が、菅原道真の亡くなった後、天神となった経緯もあるようで、

神話の中の天神なのか、道真公縁の天神社なのかは

全く不明でした。

言い伝えでは景行の館(学問所)があり、将門の弟・将平がここに通ったと

いわれている場所だそうで、千年後の現代では隣は第五保育所、

小さな子供等が元気に飛び回っております。

「おじちゃん、なんで写真撮ってるの」

子供の疑問はまことに正直でございます、なにやら不振な人物に

思われてしまったのかもしれません。

思い切り笑顔で、

「ここにはね、大昔に君達みたいな子を教える学問所があったんだよ、

それで写真を写していたんだ」

「ふーん」

なんだそんなことかという顔で、もっと楽しいみんなとの遊び場へと

走っていってしまいました。

「三郎景行殿、今もこの学問所後は、立派に子供たちを育てておりますぞ」

その社は現在も多くの方々にお守りされていることは

確かなことですが、歴史というのは、全てを白日の下に

さらけ出すことが良いわけではなく、特に信仰の対象であれば

なお更のことなのかもしれませんね、

そう広くない境内には、その古さを思わせるカヤの樹だけが

真実を知っているのかもしれません。