菅原道真公は

延喜3年(903年)2月25日大宰府にて没す(59歳)、

延喜5年(905年)御遺骸は、門弟の味酒安行(うまさけのやすゆき)

によって、大宰府の東北の地天原山安楽寺に埋葬された、

「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、

醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向、

道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919年)に竣工した

これが大宰府安楽寺天満宮である。

天暦元年(947)、御神霊の慰霊と皇城鎮護の神として京都北野の地に

北野天満宮が創祀された。

これだけの知識だけで、あの老人が教えてくれた

常陸大生郷を訪ねたのです。

スダジイやアラカシの照葉樹林に囲まれた小高い丘の上に

『大生郷天満宮』は確かにありました。

折から節分会で、都会の有名神社仏閣の盛大な節分会とは

比べることではないけれど、集落の子供たちが沢山集まって

今や遅しと福まきを待ちわびる姿が何とも微笑ましいものですね。

本殿では今年の年男・年女の方々がお祓いをうけている、

手に手に正月飾りやお札、だるまを持って集まった氏子さんは

お焚きあげの炎の中に一年分の厄を落とすように投げ入れる、

燃え上がった炎の暖かさが冷えた身体にありがたいですな。

福まき までまだ三十分ほど待つとのことで、境内を歩いて

みる。

社伝によると

延長7年(929年)、道真公の第三子三郎景行によって

創建されたとある。

三郎景行は道真亡き後、常陸介として常陸国に赴任していたのである、

大宰府天満宮が創建されて十年、まだ北野天満宮もない時代に

三郎景行は父道真の遺骨を最初真壁町羽鳥に一旦祭祀されたのですが、

当時風光明媚であったここ飯沼湖畔に道真公が永遠にお鎮まりになります

ようにと弟等とともに羽鳥より遷祀されたと伝えている。

更に境内の刀研石にはこう記されている。

『常陸羽鳥菅原神社之移』

すると、景行は常陸に赴任した最初は私のよく訪ねる真壁羽鳥の地に

遺骨を祭祀したのだという。

さらに遡ること延長4年(926年)であった、

まさか、道真公が真壁に結びついていたとは、これは真壁をもう一度

調べなおす理由がみつかりました。

まもなく真壁の雛祭りが始ります、真壁の生き字引き K島さんに

お尋ねしてみましょうか。

何しろ1100年という気の遠くなる昔のことですから、

真実を調べようにも確かな手がかりはありませんが、

言い伝えられてきた何かは、今もあるかもしれませんね、

もしかしたら、時代的には将門とのかかわりがあるやも

しれませんからね、

天満宮の裏手には、道真公没後1100年を期して、廟所が

整備されている。

天正年間の戦乱で灰燼に帰した後を、平成の人々の手によって

再興されているのです。

待ちわびていた子供たちの歓声があがった、

年男・年女の方々、といってもわずか五名であったけれど

福豆を手に

 「オニはそと!」

 「福はうち!」

そして盛大に福豆がまかれるのです、

嗚呼、なんと温かな節分会でしょうか。

節分会が終わったあとで、お訊ねすると

ここ大生郷の南方に天満宮の守護のため、安楽寺がやはり

景行によって建立され祈願寺となって今も残されているという。

さらに三郎景行の住まい跡が今は三郎天神社として残されて

いるといいます。

しばらくは道真公の縁を負いながら坂東の地を訪ねる旅を

続けてみましょうかね。

それにしても寒い!

春とは名ばかり、夕暮れの坂東はまだ真冬でございますな。

(常総市大生郷にて)