花の咲かない桃畑をのんびりと歩いている、

「もしかしたらあの桜も咲いていないかもしれないな」

偶然出会った老人から教えていただいた糸桜はその余りの

老樹に皆は 姥彼岸桜と呼ばれておりました、

そしてあの不思議な体験は今も鮮明に記憶の中にはっきりと

残されているのです。

あれから六年の月日が流れていたんですね、

あの日の出来事は疲れ果てた旅人が見た夢 

幻だったのかもしれませんが

あの老人の姿も、桜の前まで案内してくれた

若者の姿までも、今でもはっきりと思い出される

のです。

畑道をゆっくり登っていくと目の前にあの桜樹が

何も変わることの姿でそこにあり続けておりますよ。

ハレの衣装を纏うにはまだ少し早すぎたのかも

しれませんが、

その優美な姿は目をそらすことをさせない美しさで、

慕ってくる人間を優しく包み込んでしまうようです。

根を踏まぬようにという配慮でしょうか、その周りには

木道が造られておりますよ。

ベンチにはもう二時間も見続けているという老夫婦が座っていた。

「まだ満開には少し早いですかね」

すると奥方は

「こうしてじっと見つめていると朝はまだ蕾だった花が

  開き始めるのがわかるのです」

だから、この場から立ち去ることが出来なくなったと

少し哀しそうな瞳を桜から外すことなく呟いたのです。

さくらをそんなふうに見ることができるとは・・・

大抵の人は、

「まだ六分というとこかな、満開でなくて残念だな」

と五分ほど立ち止まると立ち去っていく、

どちらがいいということではありません、

桜に思いを寄せる日本人とはかくも異なる桜への追慕の情を

持つことが出来るのかとその老夫婦に敬意を捧げるのです。

「私は先に参ります」

とご挨拶すると、

「私どもは行き先短いのでこうしてゆっくりと

 見守っております 来年は見られるかどうか・・・」

ドキッとしながら自分のことに想い致せば

「我もまた同じかもしれませんよ」

そして、もう一箇所訪ねたい場所があるからと

お二人にお別れをした。

「もしかして六年前にお目にかかりませんでしたか」

それにしても随分老けてしまわれたと見つめると、

その老女は

「オホッ ホッ、何を申されます、

アナタがこちらにお見えになったのは丁度百年前でございますよ」

私は見開いた目を閉じることが出来ませんでした、

また夢を見ているのでしょうか、

屋敷の中では微かな笑い声がそよ風のように流れてくるのでした。

「次は何時来られますの」

「多分、もうその時は、そちらの列の中にいると想います」

屋敷を出ると、眩しい春の日がいっぱいに降り注いでおりました。

甲斐路 塩山にて