梅の花を探して見歩くことを「探梅」というそうですね、

早咲きの梅を野に探すというので俳句の世界では冬の季語

なのだとか、

それじゃ、早咲きの桜を探して歩くのは探桜というのですかね、

あまり聞かないところをみると、桜は二分咲きとか、五分咲き

なんて誰も見向きもしないでしょ、だから探桜なんてやる人は

きっといないのかもしれませんね。

あの兼好先生が「徒然草」に

花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。
雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行方知らぬも、
なほ哀に情ふかし。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる
庭などこそ見所おほけれ。歌の詞書にも、
「花見にまかれりけるに、はやく散り過ぎにければ」とも、
「さはる事ありてまからで」なども書けるは、
「花を見て」といへるに劣れる事かは。花の散り、
月の傾くを慕ふならひはさる事なれど、ことにかたくななる人ぞ、
「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは、いふめる。

桜の花は、何も盛りだけを見るものではない、

花が散ってしまったからといって満開の時に劣ることはない

とやけに力んでおっしゃっているじゃないですか、

ところが兼好先生に輪をかけたへそ曲がりのおじさんは

散り終わった桜ではなく、咲き始めの桜はどうだろうと

三分咲きの桜を求めて旅たつのでありますよ。

ソメイヨシノはまだつぼみばかりだし、緋寒桜や大寒桜は

すでに満開を迎えているし・・・

「そうだ、安行桜だ!」

安行は関東でも植木の産地として特に桜には力を入れている土地、

さっそく出かけてまいりますよ。

(満開の台湾緋桜)

「安行桜の美しさは密蔵院にあり」

とこのところ欠かさず訪ねておりますので迷わず直行、

密蔵院の満開の安行桜はその背景となる寺院との取り合わせが見事で

日がな一日見つめていても見飽きないほどなんですが、

満開ともなると多くの人でごった返すのは仕方の無いことでしてね、

そうか、桜は満開になると花を見るのか人を見るのか判らなくなるので

へその曲がった兼好先生も

「桜の花は、何も盛りだけを見るものではない」

とついつぶやいてしまったのかもしれませんですよ。

さてと、その密蔵院、夕暮れ前というのに、参拝客はわずか、

それでも桜並木は予想よりも勝って七分咲き、

確かに遠くから見つめると、枝が目立って何か物足りない気分が

いたしますね、それでは、づづっと近づいてみましょうか、

蕾の塊の中に早々と開いた花のなんと初々しいことでしょうか、

「桜は咲き始めも盛りに劣ることなし」

でありますな。

遠目には梅と見紛う 台湾緋桜の濃すぎる花色を背景にすれば、

安行桜の緋色も若い乙女の頬を染めたここちして思わず足が止まる

のでありますよ。

平将門の念持仏の伝承をもつ御本尊の延命地蔵菩薩様に手を合わせれば

なにやら有り難味がジワリと伝わってまいります。

寺院と桜の取り合わせは不可分のものですな。

さて、桜には三分咲きも七分咲きも障りなし、

いつ訪ねても、それなりの美しさで迎えてくれるものかな、

つまり、桜は見たいときに訪ねるがよろしいようですな。

(安行 密蔵院 にて)