旅の途中

干支に外れた招き猫

「よう源さん、今年はなに年だったっけ」

「なんだもうボケたのか、角に立っちゃならねい羊年だろうよ」

「するってィと来年はアタシの年だね」

「そうか、散ちゃんもいよいよ本物の爺ってわけだ」

「いつも正月前になるとさ、来年こそいい年になるように

 って観音様に手を合わせてるのに、

 今年はあんまりいい年じゃなかったね」

「そうだな、今年の羊は真面目にやったのによ・・・」

「今年も残すところ十日か・・・」

「なんだよ湿っぽい声だしてよ」

「来年はいいことあるのかな」

「二年続きで悪いことあっちゃたまらねーよ、いい年になるに

 決まってるじゃねーかよ」

「誰が決めるのかな」

「そんなこと心配してると禿ちまうぞ、そういうコトは神様が決めて下さるんだよ」

「だってさ、神様だって見て見ぬ振りするってことはないのかね」

「神様疑ってどうする気だよ、そりゃ神様だっていつもいつも平常心って

 わけにはいかない時もあるだろうよ、例えば奥方に文句言われて腐っち

 まったりすることがよ」

「そりゃ、源さんなら仕方ないだろうけどさ、神様はいつもニコニコしてて

 欲しいじゃないか」

「神様だってたまにはいきり立ったりするだろうさ、人間と同じさ」

今日の源さんはやけに達観してるじゃありませんか、

「ところで、何かいいことでもあったのかい」

「なんだよ、オレは何も変わっちゃいないぜ」

「そうか、暮れのカキイレでがっぽり儲かったんだな」

「バカ言ってんじゃないよ、オレの仕事なんぞは初めから

 儲からないように出来てんだ、端から金儲けなんか気にしてちゃ

 出来やしねーゼ」

「そうか、身体からアルコールが全部抜けたんだな」

「けっ、またお説教かい、医者から止められて丁度一週間だ、

 いいわけねーじゃねーか」

「いや、顔色が別人くらいいいよ、そのまま続けたほうがいいな」

「そうやって、オレを甘党に引き込もうったってそうはいかねーぜ

 正月になったら、ぐびぐびいくからな」

どうやら来年も何時もの通りの年になりそうですよ。

「ところでよ、物知り散ちゃんに聞こう聞こうって思っていたことが

 あるんだけど・・・」

「なんだよ、子供みたいな顔してさ」

「誰にも言うなよ」

「言わないから、言ってみなよ」

周りを見回して、知り合いが居ないのを確かめると

「あのさ、干支に猫が入ってないのは何でなんだよ・・・」

「えーと、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥か、

 そういえば猫はいないな」

「そうだろう、犬や鼠がいるのに猫が居ないのは不公平だと思わないかよ」

「アタシに言われても困っちまうよ、あれは神様が『集まれ!』って号令掛けた

 時に集まった順番に決まったんじゃないのかな」

「それじゃ猫は出遅れたっていうことかい、それでも牛や羊よりは足は早いだろう・・・」

「判った!、猫はさ、人間のために片手上げて招き猫やってたんだ、

 それで集合時間に間に合わなかったんじゃないかね」

「ホーッ!それが理由かよ、人間の金儲けに加担したからってわけかい」

「そう思ってればツジツマが合うじゃないの」

「へーっ!そういう理由か、他人(ひと)には話せねーや」

暮れの押し詰まった時期に、オヤジ二人が顔つき合わせて論壇(大袈裟な)

してる内容は、まあ、こんなものですよ、

「風邪なんぞひくなよ」

と源さんと判れていつもの浅草ぶらぶら散歩、

いやーっ、もう浅草じゃ正月がひと足早く始まっちまった気分、

夕闇にボーッと歩いてる羊が立ち止まって振り向くと、

ピョコンと頭を下げました、

「別にお前さんが悪いわけじゃないよ」

見上げれば、招き猫が何度も片手を挙げておりました。

「ごくろうさん!」

2015年はこうして少しずつ過ぎていくのでございます。

2015年年の瀬 浅草にて

Categories: 日々

社会鍋 » « 納め之大師

7 Comments

  1. お尋ねいたします。
    ずっと昔、貴兄は、「日々 会津 水引」というタイトルで、pcの画面で、橘善守氏のことに触れていらっしゃいました。
    氏は毎日新聞論説委員長を務めた方です。
    氏が、大正11年、16歳で、福島県桧枝岐から帝釈山系引馬峠を越えて日光に出て、東京に向かいました。当時、峠道は確保されていたとはいえ、難行苦行の峠越えであったと推察されます。
    峠を越えても、苦しさはあまり変わらなかったのではないでしょうか。
    しかし、翌年、関東大震災のために、帰郷のやむなきに至りました。郡山、会津若松を経由しての帰郷でした。
    私は、幾つかの資料を見聞して、そこまでを記憶いたしておりましたが、貴兄により、「日々 会津 水引」に橘氏の記載がなされているのを見つけ、pcに保存いたしました。
    ところが、いつの間にか削除されてしまっていたのです。
    あの、写真付きの「日々 会津 水引」のご文が、懐かしくてたまりません。
    本日、ようやく、橘善守氏を検索し当て、pcに保存いたしましたが、私はさらに氏の経歴等を知りたいのです。
    どうか、お教えいただきたく、コメントの代わりに、この文を綴った次第です。
    なお、私は高校の山岳部顧問でした。また、会津高校長で定年を迎えました。南会津の山への郷愁は今も消滅していません。
    このコメントならぬ、お尋ねに、貴兄が応じてくださいますことを念願してやみません。
                               2015年12月24日 根本正紀拝

    • 旅人 散人

      2015年12月25日 — 11:18 AM

      根本正紀様
      「日々 会津 水引」をご覧いただいていたことに
      感謝申し上げます。
      2002年6月から立ち上げたHP「旅の途中」は日本の各地を旅した
      際の興味を持ったことを毎日綴っているうちに13年目をむかえ
      た今年の6月、突然全てのデーターが消えてしまいましてね、
      旅の記録として綴っておけば老後の楽しみに読み返せると安心
      していたのですが、全てが消えてしまった喪失感にもうHPは止
      めようと決心しておりました。
      しかし、十数年毎日やることがあったということは、シアワセ
      な人生だったとことに気付きましてね、幸い旅だけは今も暇を
      見つけては続けておりますのでもう一度立ち上げてみようかと、
      9月頃から再開いたしました。
      旅はすべてが一期一会の繰り返しと申しますが、HPでのコメント
      で昔の記事をお読みいただいていた方にこうしてお近づきなれま
      すことも何かのご縁かと思っております。

       さて、橘善守氏について綴った 「日々 会津 水引」の記事
      は記憶を辿ってみましたところ2006年頃のことだと思います。
      あの頃は盛んに会津田島、舘岩村、桧枝岐辺りを訪ねておりました。
      あの記事は、当時からさらに30年ほど前に、会津木地師の生態を調査
      するために南会津の峠を越える旅を思い出しながら再訪した時の想い
      を綴ったと記憶しております。

      実はその30年前(1976年頃)の旅で、栃木県栗山村土呂部から水引峠
      を越えた旅をしたことがありましてね、その水引峠で一人の老人にお
      目にかかったのです。その当時かなりの高齢な方で、お名前はたしか
      茂木 茂さんと記憶しております、なぜ覚えていたかというと、
      「ワシの名は上から読んでも下から読んでも同じなんだ」と言われた
      ことで今も鮮明に思い出すことができたのですがね、
      その茂木さんは明治生まれで南会津の轆轤で作った椀や曲げ物を馬の背
      に載せて日光へ運んでいたというのです、自動車の移動が当たり前にな
      っていた私の地理感覚では大変な距離だと思っていたのですが、茂木老
      人は、
      「この先の引馬峠を越えて行けば日光はそんなに遠くないのだよ」
      と話してくれたのです。
      その後東京神保町の古書店で確か「会津の峠」上下二巻を購入いたしま
      して読み進むうちに、橘善守氏が引馬峠を越えて日光へ、日光から列車
      で東京へ行くのが一番の近道だったという話が載っており、あの茂木老
      人の言葉は昔からあの地域では当たり前に通行していた山道なのだと再
      確認して記事に載せた記憶があります。

      我が家の本棚も膨大な本がありまして、昨夜もその「会津の峠」を探した
      のですがなかなか見つかりません。もし、見つかりましたら、もっと確か
      な情報をお伝えできるかもしれませんので、もう少しお時間をいただけれ
      ばと願っております。

      今は記憶を紐解くことしか方法がありませんので、思い出しましたら
      HP「旅の途中」に会津のことを綴ってみたいと思っております。

      ながながと駄文を綴ってしまいましたが、老人の思い出話としてお受け取り
      いただければ幸いでございます。

      一期一会の出会いに感謝を。

    • 旅人 散人様

      はじめまして。

      2004 年から2006 年にかけて、消えつつある帝釈山地を跨ぐ峠道を何度か栃木県側から辿ったことがあります。その頃、Web検索で貴兄の「日々 会津 水引」の記事を目にし大いに感銘を受けました。

      引馬峠に関してWeb検索していて「日々 会津 水引」に言及する記録を目にし、こちらに参りました。なんと、「旅の途中」のデータが失われてしまったとのこと。少なくとも「日々 会津 水引」のデータはコピーしたはずと思い、探してみたところ、バックアップのCD-ROM 内に残っておりました。直接お渡しする手段がありませんので、ひとまず私の HP内にアップロード致しました。トップ頁からのリンクを貼っておりませんが、直接下記 URLでアクセス可能です。(リンクを無効化するために頭のh を省略します。)。

      ttp://ruin.sakura.ne.jp/reference/日々.htm

      コピー・保管が完了された旨のご連絡いただければ、拙HP 内のデータは削除致します。

      なお、ご存知かもしれませんが、Internet Archive Wayback Machine ( ttp://archive.org/web/web.php)に、ほんの一部ではありますが「旅の途中」(ttp://www.sanjin.jp/) のデータを確認できます。

      以上、お役に立てましたら幸いに存じます。

      • 旅人 散人

        2017年10月4日 — 12:40 AM

        ヨシ様
        思いもかけぬ吉報をいただき感謝感激でございます。
        2002年に立ち上げた「旅の途中」でしたが、どういうわけか
        同じことが三日と続かぬ性格にもかかわらず、三日が十日、
        三か月が一年と毎日綴ることに楽しみを見い出し、とうとう
        十三年続いてしまいましてね。
        山登りには上りと下りがあるのですが、人生には もうひとつ
        「まさか」があったのですね。
        十三年分の記録が見事に消滅、年老いたらひとつひとつ暇に
        あかして読んでいけば人生もういちど楽しめるに違いない
        などと思っていたことが無くなってしまった時は、
        丁度いい潮時だとHPを止めておりましたが、いろいろな方から
        「病気なのか?」「生きているのか?」などとご連絡をいただき
        そうだ、まだ生きている証になるならと半年後に再開いたしました。
        2004年ごろはまだ還暦を迎えたばかりでしたので、日本中を
        飛び回っておりましてね、福島、会津には夢中になって
        訪ねており、特に水引集落は印象深い土地でした、

        あきらめていたその水引の日々にもう一度会うことができるとは
        道祖土で仏に出会えた気分でございます。
        あらためてヨシ様の御好意に心から御礼申し上げます。
        旅の記憶 としてHPに採録しようと願っております。

        追伸 保管官僚出来ました、ありがとうございます。

  2. 散人さま
     あたしが干支から外れたのはね、人間様のお金儲けに荷担していたからじゃないの。
    集合がかけられたとき、あたし・・・・・
    とても貧乏な女の子と、お寺の軒下で抱き合ってたのよ。
    その子は、もうじき仏様のところに招かれることが決まってましたのサ
    とても寒い夜だったから、あたしにできることといえば、その小さな体を精一杯温めてあげられることしかなくてね。で、その女の子が可愛い笑顔でアリガトウって逝ってしまったから、急いで駈けていったけど間に合わなかったというワケ!
    それからなのよ、あたしが「招き猫」になったのは。
    ね、だから、あたしは神様よりも仏様にご縁が深いでしょ?

    今年もあと数日となりました、一年間、この場で素敵な出逢いと感動をありがとうございました
    どうぞ良いお年を!そしてまた来年もよろしくお願いいたします      金沢の猫BABAまいより

  3. 旅人 散人

    2015年12月25日 — 12:15 PM

    猫BABAまい様
    アタシは人間の金儲けに加担していて遅れたと
    ばかり思っておりました、そこにはこんなに深い
    愛の物語があったのですね、
    招き猫様が浅草寺で大切にされているワケが合点が
    いきました。
    そういえば右手を挙げている猫は金運を招き、
    左手を挙げている猫は人を招くとされているワケも
    よーく判りました。

    早速、あの源さんにも教えてあげようっと。ウフッ!

    いよいよ押し詰まってまいりました、まだ休むには
    元気が残されております、もう少し 日々を続けようと
    思い出しました。

    御城下の宿がもう少し空くようになりましたら、あの
    新幹線でお訪ねしたいと願っております。

    来る年も猫世界のお話を楽しみしておりますからね。

  4. 拝啓
    『旅の途中』執筆者の旅人散人様。
    私は12月24日に、『日々 会津 水引』にかかる、橘善守氏について、お尋ねの投稿をした者です。
    貴兄の懇切、丁寧なご回答に、今暁(12月26日午前5時)、接することができ、興奮いたしております。
    これほどまでに、お心の籠るご回答をいただくことができますことを期待しておりませんでした私は、今、感謝とともに、pcの存在価値を再確認し、賛嘆いたしております。
    私は、貴兄の、木地師のご研究と、現在事務所を構えていらっしゃるというご生業と、達意のご文との総体的関連の「実態」を測りかねております。
    しかし、それはさておいて、橘氏についてのご教示をありがとうございました。
    さて、『会津の峠 上・下』(昭和50年刊・歴史春秋社)は、私の書斎にもありました。
    『引馬峠』の執筆者は故酒井淳氏です。会津の地誌等探求にご尽力なさった方です。ご子息は高校の社会科の優秀な教員です。お父上の「ご偉業」のレベルに到達なさるべく研鑽に励まれていらっしゃいます。
    ところで、引馬峠に、私は足を踏み入れておりません。
    しかし、帝釈山には3度、登っております。
    私が登山行動を展開しておりました頃(昭和40年代から50年代)には、もう、引馬峠は夢幻の峠でした。登山家仲間にも引馬峠の存在を知る人は少なくなり、また、引馬峠までたどるにしても、藪がひどくて、同行者も、早く下山して一杯やろう、ということを言いはじめる始末でした。
    しかし、私は、『引馬峠』(加藤泰安著・昭和41年刊・「岳人講座・②春山・東京中日新聞出版局所収)に魅せられ、この上もなく心惹かれ、諳んじるばかりに読み返し、果てには、全国高体連山岳部門の広報誌に寄稿する拙文に、引用までしたのでした。
    帝釈山にたどり着きながらそのまま引き返すという愚を排除して、引馬峠まで、藪漕ぎをしてでもたどるべきであった、という後悔は、老境の今も消えることはありません。
    橘氏につきましては、桧枝岐役場では教えてくださいませんでしたので、このたび、別のルートで調べました。
    ただ、いまだに分からないことは、橘氏をして青雲の志を抱かせしめた主因は何であったのか、ということです。
    大正12年という時期の桧枝岐の実況的現実には、現在の私の想像を超えるものがあったかもしれません。
    くだんの、ずっと時代が下ってからの、加藤氏の『引馬峠』の叙述を俟つまでもなく、であります。
    かかる状況にありながらも、橘氏をして覚醒せしめたものはそれは何であったのであろう、と私は沈思いたします。
    (なお、私が、橘氏の上京を、大正11年、16歳のとき、と記しましたのは間違いでした。大正12年5月、17歳のときに、上京し、関東大震災後の大正12年9月に、いったん帰郷したのです。申し訳ありませんでした)
    気が付けば、今や午前9時11分です。午前5時に貴兄のご文に触れ、狂喜して、pcのキイをたたき始めて、4時間を経過しました。老齢の私の右手指は麻痺し始めました。
    しかし、心地よい手指の麻痺です。
    貴兄のような素晴らしい方とゆくりなくも巡り合うことができました。
    あの「日々 会津 水引」の写真のお婆さんのお姿が眼前をよぎります。
    貴兄におかれましては、『旅の途中』を絶やさないでくださるようにお願いいたします。
    なお、貴兄におかれましては、私のメールアドレスをご存じなのですから、「私信」を賜ることがありますならば、大変に光栄です。
                                           敬具
                                         根本正紀
    2015年12月26日
    旅人散人様

根本正紀 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

Copyright © 2024 旅の途中

Theme by Anders NorenUp ↑