この世に存在する全てのモノに名前があるわけではない、

人は名がついて初めてそのモノの存在に気づくのです。

たとえば花にしろ、色にしろ、人の名にしろ

名が判った瞬間に記憶され存在として認識されるのです。

古人はその名に魂が宿ると認識していたようで、

とりわけ色の名に対しては繊細な違いを見分ける能力を

有していたのです。

身分制度が厳格に維持されていた時代、

その身分を表すために衣服の色わけは

重要な意味を持っていたため、

現代のように誰でも好きな色を身につけることなど

許されることではなかったのですね。

その身分制度が維持されていた最後の江戸時代、

江戸、大阪を中心に町人達は天下泰平の世の中で、

手にした繁栄を華美、贅沢に注ぎ始めるのです、

為政者は再三にわたり奢侈禁止令をだし

庶民の華美、贅沢を禁止するのですが

庶民はしたたかさは、粋なお洒落として

表地は地味に見えてその裏地に描絵をほどこしたりと

見えないところに華麗な色や意匠をほどこすという

日本のひとつの文化を作り出していくのです。

華やかな衣裳を着ることができなくなった町人たちは、

やがて茶や黒、鼠系統の地味な色を基調に、

縞や格子、小紋などの着物を創意工夫していくのですが、

その茶や黒にも繊細な変化をつけていくのです、

「四十八茶百鼠」と呼ばれるほどの色の違いを

繊細な感覚で見極める能力ははたして何処から手に

いれたのかはとても興味あることなのです。

栗色、檜皮色、朽葉色、橡色、

  媚茶色、香色、路考茶色・・・

色を見分ける繊細な能力もさることながら、

そこにつける名前のなんと言う表現力でしょうか。

この国では、人は全てを自然に取り囲まれ、

春夏秋冬の四季があり、自然が移り変わる変化を

感じずに生き続けることはなかったのですね、

時はまさに秋の紅葉真っ盛り、木々を見上げれば、

紅、金糸銀糸を思わせる彩に覆われ

その錦を求める人々で紅葉の名所はどこも

人、人、人の波が押し寄せているでしょう。

日本人ほど色にこだわる人種は居ないのかもしれません、

それはこの国が歩んできた歴史が繊細な色感覚を大いに

膨らませてきたことは間違いないことでしょう。

ふと足元をみれば、あの緑に輝いていた木々の葉は

朽ちてその生き生きとした色を失い始めている、

しかし、先人たちはその朽ちていく葉の色にさえ

切なさの表現として名をつけたのです。

「朽葉色」

それは目立たぬ色にも係わらず、

渋さと切なさを感じさせる色として「粋」の代表のように

扱ったという事実に改めて驚かされるのです。

この国ほど繊細な違いを表現する言葉を持っている国は

そう多くはないでしょう、

もし、ファッションに敏感な若い娘さんが

この日本古来の色言葉を理解し、日常の中に取り入れていくことが

できたら、随分豊な生活を送ることができるでしょうね。

赤朽葉、黄朽葉、青朽葉

緋褪色、薄紅、桜鼠、韓紅、臙脂、真朱、

浅黄、櫨染、支子、海松茶、黄蘗、鶸萌黄・・・