二千数百年前、稲の種籾を携えてやってきた民族がおりました、

東アジアの大陸からか、朝鮮半島からか、南海の島々からかは

まだはっきり解明はされておりませんが、その稲作はこの国の

食料の根幹を築いてきたのです。

ある時は、武士達の禄高となり、為政者にとっては大切な年貢

として吸い上げられたのです。

農民の作った稲は、自ら食料にすることは出来ず、平時は畑作の

麦、粟、稗、黍、蕎麦や根菜類が農民たちの主食だったのです。

農民の作る稲は、現代人が最も大切に思う金銭以上の重みが

あったのかもしれません。

多分、稲を育てる農民にとっては稲の実りは黄金そのものに

感じていたでしょうね。

その稲には稲霊があると信じ、稲の恵みに神の加護を

感じてきたのが日本人の大多数であったのです。

昔から、農家の主人は正月に田に出て、鍬先を田圃に

入れて耕すまねをするのです、

それは田の神に農耕の姿をお見せして豊作を祈る意味が

あったのです。

鍬入れ、春田打ち、農立て、田植え、鳥追い、など多くの

稲作儀礼はすべて田の神への豊作祈願として営々と続け

られていたのですね。

日本には、田に関する演芸が、三種類あると折口信夫は

「田遊び祭りの概念」の中で述べています。

  第一は、田遊びである。此行事は、余程、古くから

行はれたものと思ふ。

  次は田ひで、此も、奈良朝以前既にあった。

  第三は、平安朝の末に見え出して、鎌倉に栄え、

室町に復活した、田楽である。

と。

田遊びの あそぶ は、古い用語例では、鎮魂を行ふ

為の舞踊を言うたのだそうで、

田の神に、私どもは稲作の行事をこのように行います、

とあらかじめ年の始めにお見せすることを 田遊び 

と言ってそれが今でも続けられている場所があるのです。

もう農家など一軒も無くなってしまった

東京は板橋区徳丸地区で、千年以上も

毎年欠かすことなく続けられている 田遊び は伝統行事

となって毎年旧暦の正月に行われているとお聞きし、

早速伺うことにいたしました。

徳丸地区の鎮守としての北野神社は今年で千十八年目

だという古社でした。

少し早めに伺うと、境内にはすでに モガリ と呼ばれる

舞台が設えられており、四方に忌竹を立て、注連が張り巡らされ、

モガリの中央には宮太鼓が置かれている。

田遊びに使われる数々の道具も用意され、暗くなる時間を

待っているのです。

神官に導かれて、氏子代表、白丁姿の諸役が本殿に集い、

御祓いと祝詞奏上が行われる。

外で待つ間、気温はますます冷えてくる、まだ始まる前に

身体の方が持つか心配になるほどの寒さの中、いつのまにか

モガリの周りを人々が取り巻いておりますよ。

正月飾りが次々に燃やされ、左義長の役目もあるのでしょうか、

お陰でいくらか暖をとることができ手を摩りながら始まりを待つ。

舞台に登場したのは烏帽子姿の「大稲本」と「小稲本」、

「よう、よなんぞうどの、よう」

抑揚を抑えた「大稲本」の唱導に続き、十数名の諸役が唱和していく。

最初は「町歩調べ」東西南北に中の町を合わせて五万町の中の町の

良き候所を天神大明神の稲代処と打ち始め申候

と始まった。

ニワトコの棒に餅をつけた鍬を銘々が手に、どうやら宮太鼓が

田圃に見立てられているらしく、その鍬で太鼓を打つ仕草をし、

田をならすようです。

面をつけた牛が登場、大稲本と小稲本に曳かれて田をならします、

その度に、

「よう、よなんぞうどの、よう」と繰り返される。

やがて、ザルを手に、種蒔きが済むと、手にささらを持って、

「シャーッ、シャーッ!」と歯切れのよい音が響く、

どうやら鳥追いの所作らしい。

どうやら、ここで休憩がはいり、田植えからの所作は休憩後

となりました。

最後まで見ると二時間ほどかかるとのこと、防寒用意をして

こなかったため、とてもそこまで持ちそうもありません、

後半は来年見せていただくことにして本日は帰ることに

いたします。

これは2014年2月11日に訪ねた時の感想であります。