『桜さく四方の山辺をかぬる間に

   のどかに花を見ぬ心地する 』

『身を分けて見ぬ梢なく尽さばや

   よろづの山の花の盛を 』

   西 行  山家集より

Y崎さんから電話

「満開になりましたよ それに雨ですから」

もう何度も訪ねた櫻です、いつも晴れた日の花ばかり眺めていた、

「この櫻の木肌は雨の日でないと凄さが感じられないかもしれないですね」

そんな感想を述べたことがあったことをY崎さんは忘れて

いなかったのです。

甲斐の山並みが迫る長いトンネルを抜けたがやはり雨、

夕昏前に着くことが出来ればと願っていたが、混雑もなく

予定通りに最後のインターを出ることができた。

晴れた日なら、満開のこの櫻は日本中から集まってくる人の波に

覆い尽くされてしまうのです、雨の日を待つほかに静かに

この櫻を眺めることなど不可能なのです。

初めて訪ねたのはもう30年も前のこと、

その余りの存在感にただただ驚くばかりでした、

Y崎さんの案内で三分先、六分先、満開、そして散り櫻も見せて

いただきましたね。

もうこれで思い残すことはないと思っていたのに

「満開の雨ですよ」

の誘いの言葉にやはりじっとしていられなかったのです。

雨でほとんどの人が帰ってしまった夕暮れ Y崎さんは呟いた。

「雨がこの櫻の本性を浮き上がらせてくれたようですね」

数百年に渡って、何度も絶えてしまいそうになったのに

その都度、献身的な櫻守のみなさんの努力で何度も

蘇ってくる櫻、

今年も不死鳥のように優雅な翼を広げた姿を確りと

見せてくれました。

「どこまで生き続けるのでしょうね」

「この櫻を眺めた人はきっと誰でもそう思うのですが、

  悲しいかな 人間の寿命では誰も見届けられないのですよ、

  だから 神代櫻と呼ばれているのかも・・・」

Y崎さんは微笑みながらその満開の櫻を見つめるとそう応えた。

   『花に染む心のいかでのこりけむ

      捨て果ててきと思ふわが身に』

                  西 行

そして、あの満開の雨の日から一週間目のやはり雨の日

もう一度、あの神代櫻を訪ねてみました。

もう誰も見る人はいなかった、

はらはらと散り急ぐ桜花、

こうして何百年散り続けているのだろう・・・

時間の観念が無くなるほど見つめていたに違いない、

雨はいつの間にか止んでいた、そして山の端に沈みかけた

今日の最後の光がまるで天からの贈り物のように輝きを増した、

花の無い神代櫻は、一瞬だけその凄まじい命を見せて

くれた、

「なんという櫻なのか、いや櫻ではない千年の時が凝縮して

 固まっているのだろう・・・」

その光が照らしだした櫻の命を目にしたのはほんの一瞬だった

のだろう、再び湧きあがった雨雲が現実の世界へ戻して

くれたのです。

嗚呼!櫻は果てがないのです、どこまで人の心をひきこんで

いくのだろうか・・・