梅が咲くとその香りに足を止め、

桜が咲くと桜並木の下を歩く、

柳の新緑に目を細め、

榛の木がその緑を濃くし始めると、

鮮やかなあやめや花菖蒲が美しさを競い合う、

仕事場へ向かう朝の道で、季節の移ろいを感じるほど

楽しいことはありませんでしょ。

毎朝横目であやめや花菖蒲の彩を確かめる日が続いていると、

「いよいよ今日かな」

自分なりの見頃を確信すると、菖蒲田まで下りていく。

見事な花がある基準を感じるように見事な花を咲かせている、

何処からどう見ても、萎れた花が見当たらない、

その時、作業服の一団がやってきた、

夫々に段取りを決めると、菖蒲田に入っていく、

人に見せるために特化した花であれば、萎れた姿をさらすことは

許されないということなのでしょう、

人の手によって、その萎れた花だけが摘まれれていく、

桜や椿であれば、自らの意思があるかのように、ある時期を境に

散っていくのですが

あやめや花菖蒲は枝の先でいつまでも萎んだ姿をさらすことに

なるのです、

なんだか人間の都合で、汚いものは捨て去るというのは、

世相を反映しているということなのでしょうかね、

何時咲くのだろうかと期待を込めて待っている時のあの楽しさは

それはそれで充実した気分ですよ、

そして、満開に咲いたその一点を愛でるために人は集まる。

散る花であればその散り方を愛でる心を持つ人々が、

薔薇もそうですが、少しでも遣れた姿を見せると

全く拒否の態度を見せるというのは少しつれなくは

ないですかね。

咲き始めも、満開も、萎み始めも、すべてひっくるめて

その花の姿なのですが、

絶対に美しくない姿は見たくない というのはなんだか

人間の傲慢さを現しているような気がしてしまいました。

たかが花じゃないか とおっしゃるのですか、

でもその感情が花以外に向けられると、

水準に達していない、とか

人気投票でランクをつけて人気の無いモノは排除する

ということが起こったりしませんかね、

朝から花を見ながら、自分も知らぬ間に傲慢な考え方を

していないか反省してしまいました。

たかが花、されど花

知らず知らずに基準を設け、その基準以外は全く無視する風潮が

起こっているとしたら、その原点は人間の比較する心によって

起こされていることをもういちど噛み締めておりますよ。

ああ、無心のこころで花を見つめることはできませんかね、

そもそも、美しいと感じる心のありようは夫々違って当たり前のはず、

そこへ、一定の基準を持ち込んだのは誰なんでしょうか、

そう、自分自身だったんですよ、

花も、人も、必ず心に響く美しさを感じるモノがあるはず、

欠点や、醜さを探し出すことは、どうやら人間の得意技、

美醜、濃淡、華美質素、完全欠如その全てを受け入れる広いこころを

もちたいものですね。