旅を続けていると見知らぬ町を彷徨うことが多くなる、

その町の記憶が残されるのは大抵は視覚である、

偉い先生の節によると70~80%は目の前の流れていく

町の景色が視覚にひっかかることによって記憶の中に

封じ込まれるらしい。

しかし、視覚で覚えているからといっていつも記憶が

思い出されるというわけではないのです。

視覚ともうひとつ他の感覚が重なった時、

例えば聴覚と共に記憶されると、其の音を聴いただけで

景色が鮮明に浮かび上がるのです。

風鈴の音、虫や鳥の鳴き声、水の流れる音、いわんや雷の音。

さらに視覚と触覚しかり、

視覚と味覚、

視覚と嗅覚・・・

見知らぬ町ではないが昼時間に路地裏を歩いていると

突然あのソースの焦げる匂いが鼻をつく、

その瞬間、もう30年も前に歩いていた町の景色が蘇えったのです、

歩いている路地は何時の間にか岐阜の柳ケ瀬の町に

変わってしまいました。

そうです、これはあの懐かしいソース焼きそばの匂いなんです、

「この町はソースの焦げる匂いがするんだね」

目の前の鉄板の上で焼きソバを手際よく焼いているおばちゃんは

手を休めずに

「この町の名物だからね、この通りだけでも何軒も

 焼きソバ屋が あるんだよ」

そんな会話まで思い出されるのです。

匂ってきた風に乗って、目の前にたち現れる記憶の中の景色とは

これほど鮮明なのですね。

音楽を聴いただけで昔付き合っていた彼女と一緒に観た

映画のシーンが立ち現れることなどが40年も経って

思い出されることなど誰が想像できるでしょうか。

「何枚にしますか」

記憶の中の町のつもりで、前の客につられて席につくと

太目のおばちゃんが注文を訊いてくる。

壁に貼られた消えかかった貼紙には

「餃子は二枚から願います」とだけある。

飲み物は酒以外は水だけといういたってシンプルなもの。

「二枚くれるかい」

「飲み物は?」

「酒はいらない」

というと水と一緒に餃子が二皿目の前に運ばれてくる、

それはもう手品をみているような手際のよさである。

隣のオヤジは鼻の頭まで真っ赤にして焼酎をぐびぐびと

呑みながら熱々の餃子を頬張っている。

「アチッ!」

此処は記憶の中の町ではなかったのですよ。

昼間から酒を浴びながら気持ち良さそうに餃子を

口に運ぶオヤジの隣の席は、現在のことだったのです。

「どうだい、ここの餃子は旨いだろ」

袖すりあうも他生の縁 

「こりゃ旨いね」

「あれ、あんた水飲んでるの、まあ付き合いなよ」

気持ちよさげに焼酎を勧めてくれる親切を

「駄目だよ車だから、それにまだ仕事中だからね、

 気持ちだけいただきます」

どうやらいい話し相手を見つけたと思ったらしいその人の良さを

断るのはこれで中々辛いものですよ。

残った餃子を口に入れると、ハフハウしながら礼をいうと

金五百円也を支払い表に飛び出す。

其処は見慣れた町の路地裏でした。