「主を思うてたもるもの、 わしが心を推量しや、

何の因果にこのように、 いとしいものかさりとては、

傾城に誠なしとは、わけ知らぬ、 野暮の口からいきすぎの、

たとえこの身は淡雪と、 共に消ゆるもいとわぬが、

この世の名残に 今一度、 逢いたい見たいとしゃくり上げ、

狂気の如く心も乱れ、 涙の雨に雪とけて、

前後正体なかりけり」

     新内節 明烏 より

谷中の路地を歩いていると、黒板塀に格子戸のお宅から

新内三味線の音色と共にどうやらお稽古の声が漏れたりすることに

立ち止まって耳を傾けたことが一度や二度ではありませんでした。

その格子に絡みついた朝顔に何時も水遣りが済ませてあり、

よほどの趣味人が主(あるじ)に違いない とそのお宅の前を通るのが

散歩の楽しみになっていたのです。

あれから、しばらく三味線の音色が聞けなくなって、

通りがかった人にその事をお尋ねすると、

「岡本文弥さんのお宅でしたのよ」

知らぬこととはいえ、あの名人文弥師匠のお宅だったとは・・・

「長生きも芸のうちです」と

102歳まで現役を続けた文弥師匠の芸人としての生き様を

垣間見たような気になったのも、もう遠い昔のことになって

しまいましたよ。

夕暮れを待って、何時もの路地裏抜ける、

思わぬ オニユリのきつそうな顔つきにしばし足を止める。

「お前さんも、えらい名前をつけられてシンドイことだね」

二三度頭を振ったのは、路地を吹き抜けた夕風の悪戯だったのか・・・

変わらぬ様な谷中の路地裏も、よーく見れば、何時の間にか

馴染みにしていた甘味処が呑み屋さんに様変わり、

「うーん、やっぱり呑兵衛を相手にしなけりゃ商いが

なりゆかないか、またひとつ道草処が減っちまったか」

夕焼けだんだんをよたよた下れば、谷中銀座商店街、

世の中、変われば変わるもので、今や雑誌片手に若い子が

闊歩する、どうやら東京の観光地になっているらしい。

「暑いね」

と口まで出かかった禁句をぐっと押し込んで、

散歩の途中で見つけておいた、細い細い路地裏の店に

逃げ込む、相変わらずにこやかな女主の応対が

嬉しい谷中夕暮れ散歩でございます。

「熱い珈琲を・・・」