「あら、やっと咲き揃いましたね」

まだかまだかと待ちわびていた梅の花の前でその方は

そっと微笑んだ。

そしてこう話し始めたのです。

「今年の梅が遅れたのは、気候のせいばかりではないのです、

あの日海に消えてしまった多くの人たちの想いを受け止めて

いたに違いありません」

中々咲かない梅の花にみんなの注意を促せるために遅らせて

いたのだと今度は真剣な目でそう話した。

梅の花が運んできた今年の春が、やけに冷たく感じるのは

もしかしたら、海の向こうから沢山の想いを乗せてきたからだろうか、

祈るためにやってきた心ある人がまたひとり歌川豊国の碑の前に咲く

紅梅の前で足を止めた。

春ならば東風吹くはずの境内に、冷たい北風が吹き抜けた、

すでに咲き終えた花びらがひらりと舞った、

「いい香り・・・」

梅は散り際に匂うというのは本当だったのですね、

  吹く風をなにいとひけむ 

梅の花散りくる時ぞ香はまさりける

古今和歌集 凡河内躬恒

私たちの祖先は、花には神が宿ると信じてきたのです、

そして散る花に儚さを見つめてきたのです、

今ではその風習は誰もやることはなくなりましたが、

  梅の花今盛りなり思ふどち

   かざしにしてな、今盛りなり

       筑前守 葛井大夫

男も女も梅の一枝を髪に挿(さ)して かざしにしたことが

万葉の時代から行われていたのは、挿した梅の花に神が宿ると

信じていたのです、

かざしは神に奉仕する者のしるしだったのでしょう、それが

いつしか宴の風流として用いられるようになっていたんですね。

  梅の花夢いめに語らく

    みやびたる花と我思あれもふ酒に浮かべこそ

       万葉集 大伴旅人

梅の花が夢に出てきて

「わたしは風流な花ですから御酒に浮かべてください」

と言ったというのです。

いかにも酒好きの大伴旅人らしい歌ですが、

これほどに梅の花は雅人に好まれていたのでしょうね。

酒を飲まない無粋者には想像するだけでございますよ。

梅の香りに包まれていると、もしかしたら妄想が膨らむのかも

しれませんよ。

もし、花がさくらだったら、こんなに物思いに耽ることは

出来ないかもしれません、

さくらは魔物なんです、人のこころを惑わし、狂わせてしまう、

ああ、まもなくそのさくらがやってくる・・・