(いよいよ神宮境内に繰り込む左方奈良毛郷の囃し人)

「まつり」と言ってもいろいろな形があります、

大抵は年に一度の祭礼ですが、中には三年に一度

大祭として特別な「まつり」を祭祀したり、五年に

一度、さらに七年に一度などの期間を定めて祀る

「まつり」もあるのです。

かつて六十年に一度という大戸神社の祭礼や七十二年

に一度という金砂郷神社の大祭に出会ったことも

ありました。

(烏帽子に鎧姿大総督)

「まつり」を訪ねる旅をしていると、六十年に一度、

さらに七十二年に一度の「まつり」はもう一度出会いたい

と願っても自分の人生では不可能だと思い知るのです。

その時、「ああ、人間には寿命がある」と思い知ったり

するのです。

「まつり」とはまさに生き物であり、一期一会そのもの

なんですね。

縁あって「まつり」に出会えた喜びは、心から感じ取る

ことをしなければ生きている甲斐がないと想えるのです。

(いよいよ囃し人の繰り込み)

毎年三月九日は常陸国一之宮「鹿島神宮」の祭頭祭なのです、

「鹿島神宮の氏子六十六字を南郷、北郷の二郷に分け、

 両郷から各一部落が前年の祭頭祭の夜ト定され、

 この両部落(左方大頭、右方大頭という)が祭に

 奉仕する祭り」

鹿島神宮は年間八十を超す祭事が行われており、

一昨年は十二年に一度の式年大祭(御船祭)をこの目で

見つめておりました。

その時に鹿島地方に春を呼ぶ「祭頭祭」について教えていただき、

今年こそはとこの日を待ちわびておりました。

(馬簾で場を清める囃し人)

昨日はまるで春を通り越して夏が来たかと思うほどの熱い日

からたった一日で真冬に戻ってしまったような寒さに、さらに

何か神の意志があるかのような冷たい雨が降り注ぐ中で、

「祭頭祭」はこの日に行われることが当たり前のように

色鮮やかな衣装はどこか唐風の趣が感じられ、その色使いは

日本の侘び寂びとは一線を隔するもので、背中に垂らした五色の帯

にも意味があるのでしょう、東北のネブタ祭りや、岩手のさんさ踊り

とも同じ匂いを感じてしまいます。その衣装を身に着けた囃し人が

六尺(約百八十cm)の樫棒を手に次々に集まってきます。

(どこか唐風の香りのする太鼓打ち)

この「祭頭祭」は奈良朝、武運長久を祈って旅立っていった

防人たちの 鹿島立ち を思わせる勇壮なまつりですが、

今は、五穀豊穣、天下泰平を願う「祈年祭」の願いが込められて

いると言われているようです。

鹿島神宮の氏子はかつて六十六あり、左方、右方に分かれて

それぞれに小童を神の代理(新発意)を選び大総督として

その新発意を守るように色鮮やかな祭衣をまとった囃し人達が

太鼓の音に合わせて樫棒を激しく束ねるように打ち合いながら

神前に向かうのです。

その姿を目の前にすると、神を警護するという意味の方が強く

感じられますね。

今年の囃し込みはまず左方大字奈良毛郷の七歳の少年陽優君が、

地面に足を着けないようにと肩車をされて

烏帽子に鎧姿で行列を先導していくのです。

小童というのはまだ穢れの無い神に一番近い存在だと

古人たちは信じていたのです、数年前に安房千倉の白間津祭り

を訪ねた際も二人の少年が神の役を担っていたことを思い出し

ます。

男性は紋付羽織袴に陣笠、女性は裾模様の紋付黒留袖姿で

その行列に加わるのです。

(一斉囃し)

左方奈良毛郷は七つの組に分かれてそれぞれの先頭の警護役が

叫び声をあげながら走ってきてまず位置を決めると、

纏いを持った若衆がその場でぐるぐると廻り、そして

槍を突く仕草をするのです、どうやらこれから囃し人たちが

演じる場所を清める役のようです。

その仕草は、東京板橋徳丸で今も続いている「田遊び」で

演じられる花棒突きを思わせる仕草のようで、

どこか五穀豊穣を思わせる様子にも見えるようです。

(右方警護の呼び込み)

子供たちの組、女性たちの組、若衆達の組など、それぞれの

特徴があってとても見ごたえがありますね。

昔は男衆だけの囃し方だったため、右方、左方の町内同士で

いざこざがあったと聞きます、まつりは浅草でも鳥越でも

いざこざはつきものなんです、また まつりは若者達の溜まった

鬱憤を晴らさせる意味もあったのですから、どうしても荒々しさが

出てきてしまうものなんですね、

それぞれのまつりでも、手古舞姿の少女を先頭に立てたり、女性軍

を神輿担ぎに入れたりと、男衆の有り余るエネルギーを抑える工夫が

なされているのですよ。

(楼門内で清めの馬簾振り)

ここ祭頭祭は、左方と右方の囃し繰り込みの時間をずらして両地区が

出会わない工夫がしてあるのでしょうか、

古来から続くまつりも時代とともに変化していくのは、まつり が

生きている証拠なのかもしれませんね。

囃し人たちは口々に祭頭歌を唄いながらガシッ、ガシッと

樫棒を打ち鳴らすのです。この地方ではこの樫棒の打ち鳴らす

音を聞くと、いよいよ春がやってきたと感じるのだそうですが、

今年は余りの寒さと冷たい雨でみなさん身体が震えているのが

わかるようでしたね。

(鎧兜も凛々しい右方大総督)

七組全員が境内に揃うと、いよいよ一斉囃しが始まります、

雨も五穀豊穣には無くてはならないもの、ずぶぬれになりながらも

声高らかに唄声が響き渡ります。

「イヤートホヨトホヤァー」

「イヤートホヨトホヤァー ヤレソラ」

そのたびに ガシッ、ガシッと樫棒の音が重なって聞こえて

きます。

一組ごとに本殿前で参拝を済ませるのです。

(右方一斉囃し)

左方の面々が本陣に引き上げていくといよいよ右方の萩原郷の

囃し繰り込みが始まります。

右方大字萩原郷の新発意やはり七歳の衆生君が烏帽子に兜姿で肩車されて

登場します。

本殿に昇殿して着席すると、萩原郷はなんと昭和15年以来74年ぶりの

囃し奉納なのだとか、八組に分かれたみなさんの眼が輝いて

おりますよ。

「イヤートホヨトホヤァー ヤレソラ

  御社楽目出度い イヤーホエ」

「イヤートホヨトホヤァー ヤレソラ

  太鼓に合わせて イヤーホエ」

最後に挨拶に立った大親方役の言葉が胸を打ちます。

七十四年ぶりの奉納を無事務めあげられた誇りと感謝と

地域を一体化させることの大切さがにじみでていたのです。

たしかに「まつり」は手間もお金もかかるでしょう、

でもそれ以上に皆さんのこころが喜びに溢れかえって

いたことを思うと、こんな素晴らしい まつり を

何百年にも渡って伝え続けていることが羨ましく

想えてまいりました。

さて、これで終わりではありません、この後、

「春季祭」が厳かに行われるのです、

その間にことらも腹ごしらえをしておこうと入った店で

かつて大親方をやったことがあるという方とご一緒して

私が浅草から来たことを告げると、この雨の中わざわざ

来てくれたことを大変喜んでいただき、この祭りの

いろいろを教えていただきました。

さあ、いよいよ春季祭でございます。

(意気揚々と本陣に戻る右方囃し人)

平成28年3月 鹿島神宮にて