2010年03月11日(木)
歴史の証人 千年の大銀杏
いつもの店で遅い昼食をしていると
血相を変えた店のママさんが飛び込んできた。
「た、たおれたのよ!」
「えっ、ご主人がかい」
「違うのよ、あの御神木が・・・」
手を合わせてきたというその話しぶりが尋常ではない。
「御神木って荏柄天神のかい」
「違う 違う 八幡様なのよ」
「あの階段脇の大銀杏が・・・」
あわてて食事を済ませると、八幡宮へ向かった、
いつもなら閑散とする時間、何処から聞きつけたか
参道に人が溢れている。
「あの大銀杏ですって」
子供の頃から毎日のように手を合わせてきたという老人は
「まさか、こんなことが起こるなんて・・・」
人の流れの中に身をまかせながら舞殿へたどり着くと、
そこにあるはずのあの大銀杏の姿がない、
いや、まるで疲れ果てた老人のように長々と寝そべっているのです。
集まった人々は口々に
「疲れていたのかな、お疲れさんと云いたいね」
「千年だろう、倒れても不思議はないのに
みんな、倒れることなんて考えてもいなかったよな」
夫々の人生に関わってきたこの御神木へしらずしらずに
人生を重ねていたんですね。
私にも千年の内の50年は関わりを持っていたんですね、
境内の通行は禁止され、遠巻きにした夫々の関わりを胸に
手を合わせ、写真を写し、何度も振り返りながら帰っていく人と
すれ違いながら、あとからあとからにやってくる人々は口々に
「倒れたって本当ですか」
すでに確認し終わった人は、まるで自分の親のことを話すように
「惜しいことです」
と呟いていく。
見上げれば何日かぶりの青空が眩しい、
気が付けば太鼓橋の脇のカンザクラが満開を迎えている。
そういえば、二年前に樹齢600年の桜が倒れた時も感じたことだったが、
歴史というのは、必ず何処かで終止符が打たれる
それは百年後か四百年後かそれとも千年後なのか
誰もその行く末はしらない、
たまたまその瞬間に立ち会った者だけが
その事実を確認できるということを。
歴史の重さを目の当たりにした旅の途中でのことです。
鎌倉 鶴岡八幡宮にて
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コメント
公孫樹が選ばれた時点では、その樹が千年生きることなど
誰も想像だにできなかったでしょうね。
形あるものはいつかは消えていくと判っていても、
人間の想像の範疇を超えた存在に人は神を感じるのかも
しれません。
理屈や理論では答えの出せないものがこの世にあることの方が
大切なのではないですかね。
再生という考え方よりも、果たして現代に千年後の人々に
残せるものがあるか、そんなことを考えさせられただけでも
あの公孫樹の命は多くの人々に感銘を与えたように思えました。
人も樹も動物も虫もたった一代で消滅するものではないと信じていたいですね。
銀杏を選んだところから運命は決まっていたようです。
「切る」という決断は勢いかもしれません。
人の心に残ればそれだけで十分満足です。
再生という選択肢は私はあまり好きではありません。
それはただの未練に感じてならないからかもしれません。
鎌倉の祭りでもこんなに集まらないだろう
というほど多くの人が境内に参集しています。
それぞれの記憶の中に刻まれた人生の一瞬を
みんなこの御神木に重ねていたのですね。
数百年という時間(とき)を吸い込んで成長
してきた大樹には、人の想像を超えた何かを
発散し続けているのでしょう。
あの三春の滝桜、根尾の薄墨桜、実相寺の神代桜、
みんな神になった大樹に人が吸い寄せられて
いく姿は、理屈を超えたエネルギーを実感させられる
からに違いありません。
奈良の東大寺の大仏殿をもう一度建て直すための
檜の大樹はもう日本には存在しないそうです。
一度切り倒された大樹は二度と出会うことは
ないのです、大樹を見つめる度に、人間の寿命の
少ないことを実感させられますね。
後の世に残っていくのはあの味気ない丈夫だけが
取り得のコンクリート建造物だけになるかもしれません。
いろいろなことを考えさせられた千年の公孫樹です。
あの別当公暁が隠れたという大銀杏ですね。
そう言えば、この人、映画「道元」で
道元の幼なじみとして登場してましたね。
そんな歴史上の事件も見てきた大銀杏。
倒れた姿を目の当たりにされると
きっと感慨深いものがあるのでしょうね。
うちの近所にも、樫?の大木があります。
バブルの頃に住人が次つぎと立ち退き
再開発が中止になって、空き家と老木が残った。
先日業者が入りましたが
木は剪定されただけで
何とか切り倒されずに残りました。
私が生まれるずっと前から
時代の移り変わりを見てきた木。
そこでいつも見守ってくれていた木。
それまで意識したことはなかったけれど
何だか急に身近なものになりました。






