慶長15年(1610年)、下総国香取郡の小見川藩から、

老中となった土井利勝が三万二千石で佐倉城に入ってすでに

四百年余の時が過ぎております。

その佐倉藩の総鎮守として祀ったのが、麻賀多大明神、

この聞きなれない麻賀多神は、印旛沼の辺りに千年も前から

祀られていた神さまなのでして、古事記には「和久産巣日神」、

日本書記には「稚産霊命」と記されているのです。

実は佐倉秋祭りには二つの楽しみがありましてね、

一つは麻賀多神社の宮神輿の宮出しをこの眼で見つめる

こと、この千葉では一番大きいといわれる宮神輿を担ぐのは

鏑木町の青年部だけなんです、宮神輿の渡御は何度か拝見して

おりますが、宮出しはやっと二年前に念願叶って目にすることが

できました。

(麻賀多神社の宮神輿)

そしてもう一つは

二年前に加美(上町)所蔵の人形山車が78年ぶりに復活したというので、

それだけの為だけでも一見の価値は大いにあるというものですよ。

実は加美(上)町の人形山車は幕末の頃、江戸の日枝神社山王祭りの

氏子であった日本橋の元四日市・万町・青物町が所有していた山車で

上に乗っていた人形は日本橋十軒店の人形師二代目仲 秀英が作成した

ものでした。

(加美(上町)所蔵の日本武尊)

江戸と密接な関係にあった城下町佐倉では明治十二年に日本橋から

人形山車を購入したという記録が残されておりましてね。

明治時代までは、城下町にも大店が軒を連ねており、その財力も

相当なものだったのです。

しかし、その人形山車も昭和11年の祭りを最後に修理が出来なくなり

そのままに刻が過ぎていたのです。

山車の上に乗せられた 日本武尊の人形はその後上町の会所に飾られて

おり、その素晴らしいできばえの人形だけは見ることができたのですが

人形は山車に乗ってこそその姿が輝くことを知っていた町内の人々は

いつか人形を乗せた山車を作り上げたいと願っていたのです。

この上町の山車人形は東京の山王祭りや丸ビル内に飾られているのを

何度か眼にしていたのです。

山王祭に登場した時は、台車に乗せられて完全な人形山車ではなかったのです。

それが今回、完全な形で山車が曳き回されるというのですから、そりゃ、どきどき

しながら上町へ向かうのでありますよ。

丁度山車庫から出された山車の飾り付けが始まったばかりでした、

上町の皆さんの人形山車を見上げる顔に笑みがこぼれています。

先ほど上町会所に飾られていた昔の日本武尊は

そのまま保存されるようで、

新たに作成されたもう一つの日本武尊が山車の上に

乗せられ、まだ幕の張られる前の

状態までこの眼で見ることができました。

行方不明になっていた山車の化粧部材が見つかったことで

復刻の話が進んだのだそうで

新たに秩父の吉田作業場で車輪及び軸組構造部材の復原がなされ、

二年前の六月に完成したとのこと。

二階の屋根を越す威容に思わず拍手を送るのでございました。

(横町の石橋山車)

氏子17軒という小さな横町にも立派な人形山車がありますよ、

山車の上には 能の「石橋」の獅子、

山車の彫刻も獅子と牡丹、上段の四方幕も波に牡丹の金糸刺繍で

覆われています。

いつもは夜の仄かな明かりの中でしか見たことが無かったので

しみじみと見せていただきました。

そして、こちらでも少子化で少なくなった子供達のために

きちんと小さな神楽殿がありましてね、ちゃんとお囃子付きで

これから新町通りを練り歩くのですよ。

子供達の眼が輝いているじゃないですか、

さて、新町通りには町内神輿が威勢のいい掛け声でやってきます。

仲町のお神酒所屋台を小さな子供達が賢明に曳いてきます。

佐倉では積極的に子供達を祭りに参加させているのですね。

氏子町内の店の前では佐倉囃子に合わせて女衆の輪踊りが始まります、

あの独特の掛け声が興をそそりますね、

『えっさの こらさの えっさっさ』

そうです、次の世代を大切に育てなければ祭りはいつか

途絶えてしまいます、

祭りの全ては、祭りの中に身を置かなければ判らないままに

なってしまうのです、

子供達に祭りの楽しさを通して伝えることこそ、祭りの主旨では

ないですかね、

そのことを真剣に取り組んでいる佐倉の町にますます応援したく

なってしまうのです。

大人たちだけが酒を呑んで大騒ぎするだけが 祭りではないことを

表現されている佐倉とは、さすがに城下町の誇りに溢れておりました。

祭りは其の中に身を置いてみないと判らないことばかりなり。

(2016年10月記す)

2020年10月 例大祭は挙行された、

ただし、神輿渡御は行われなかった。