享徳三年(1454年)に始まった関東を騒乱に巻き込んだ古河公方と

関東管領の戦は和睦をし、三十年続いた騒乱は何とか収まっていた、

太田道灌の父道真は河越城から五里程西に行った奥武蔵の越生に

隠居所『自得軒』を建て庭内には茶室まで設え、

悠々自適の暮らしぶりであった。

ある蒸し暑い夏の一日、

道灌は茶人である伏見屋銭泡と禅僧万里集九を伴って越生の

父道真を訪れた。

河越城に連歌師の心敬、宗祇らを招いて、

『河越千句』の連歌会を催した程の文人でもある道真は

多分お茶会でもてなし、公家衆や隠居した武士たちが集まり、

賑やかな宴会になったに違いない。

越生がまるで都のような華やかな気風になっていたのかもしれない。

道灌は翌日、伏見屋銭泡と禅僧万里集九を残して帰っていった、

まさかその日の親子の別れが永遠の別れになるとは

誰も思いもしなかったに違いない。

文明18年7月26日(1486年)、

大山が目の前に見える扇谷定正の糟屋館で、

太田道灌は何者かに暗殺されてしまう、享年55歳であった。

道灌が暗殺された扇谷定正の糟屋館には伏見屋銭泡も

同行していたがその経緯はわからないままであったという。

穏やかな春を思わせる越生を訪ねたのは、何時の日だったか

道灌、銭泡、万里集九が訪れたという自得軒をこの目で

確かめたいとという想いだった。

越生の梅林はすでに梅まつりも終わっていたが、

肝心の梅はまだ半分も咲いていない、あの梅林坂の梅に

誘われてはるばる訪ねた越生はさぞかし美しい梅の花に

覆われているだろう予想は見事に外れてしまった。

「あの がんこうじ というお寺さんはどのあたりですかね」

「がんこうじ? そんな名前のお寺は知らんよ」

梅林の中で商いをしていた婆さまは首を振った、

「この先の右側にお寺さんがあるがな」

礼を言ってその寺を訪ねる、

「青龍山最勝寺」とある、源頼朝の命により創建された

中々立派な寺院であった、境内には美しい梅の花で

覆われていた。

手を合わせ、さらにであった人に尋ねる、

どうやら私の調べてきた名前の方が間違っていたらしい

「建康寺ならこの先の右側ですよ」

道野辺の地蔵様の横を曲がると小路はこじんまりとした

寺に行き着いた、

此処が「自得軒」のあった場所かどうかは今となっては不明だが、

父道真は我が息子道灌の菩提を弔うために、この地に「建康寺」を

建立したという。

梅の香りに導かれながら、道真・道灌親子を追う旅は越生の「建康寺」で

幕を下ろしてしまった。

文明18年(1486年)の夏、道灌と共に道真を訪ねた万里集九は

あの一夜を著書『梅花無尽蔵』の中に残している、

 郭公稀      (ほととぎす稀なり)

 縦有千声尚合稀  (たとへ千声ありと云へども尚合うは稀なり)

 況今一度隔枝飛  (況や今一度枝をへだてて飛ぶをや)

 誰知残夏似初夏  (誰か知らん残夏初夏に似たるを)

 細雨山中聴未帰  (細雨山中にきいて未だ帰らず)

こんな穏やかな越生の春を

五百年前の人たちは感じることができたのだろうか、

戦のない国こそ生きるに相応しいのであろうに。

帰りに越辺川に架かった橋を渡ると、

そこには道灌橋と刻まれていた。