今年もあの場所の桜が咲いた。

意志があるとは思えないが、

まるでこの日を待っていたように

桜が咲いた。

かつて陸軍被服廠があった此の場所は大正8年に

その被服廠が赤羽に移転したため公園予定地として

更地になっていた、

大正12年9月1日、あの大震災が発生、多くの罹災者が

この空き地へと続々と避難してくる、

12歳だった母は深川が火の海になり、この空き地を

目指して避難してきたが、すでにこの空き地は

人と持ち出した家財道具で埋っていて、入ることができなかった。

蔵前橋を渡り、かろうじて上野の山に辿りつき、振り返ると

深川、両国方面は火の海だったという。

そしてあの空き地に避難した人々は、火災旋風のため

すべて死亡した。

母が見たものはおびただしい黒焦げの人間の形と、川に浮かぶ

死体だった。

これは天災であった、下町の人口密集地と言う原因が被害を

大きくした事実はその後の下町の生き方に

多くの教訓を残したのでした。

そしてそれから22年後、同じ東京下町は戦争という狂気の中に

あの時と同じ災害を受けることになるのです。

戦争とは、いかに効率よく人を殺すか そのことを専門に考える

人間が現れるのです。

関東大震災を徹底的に検証、木造住宅が密集する東京の下町が

火災被害に遭いやすいことをつきとめ、そこを攻撃目標と定め、

ゼリー状のガソリンを筒状の容器に詰めたナパーム弾を空から

ばら撒けばどういう状況になるか、想像力を持つ人間であれば

だれでもその結果を簡単に推し量れたでしょう。

ナパーム弾は日本家屋の瓦屋根を打ち貫いて

家の中に入り中身を散布するため

一瞬にしてあたりは火の海と化す。

当夜は冬型の気圧配置により強い北西の季節風が吹いていた

一夜にして10万余の人が犠牲になった。

戦争とは、最も効率よく人を殺す ことなのです。

この日、あの空き地に建てられた東京都慰霊堂で

春季大法要が行われた。

公の行事が終わった夕方、年老いた人々が、密やかに

この慰霊堂へやってくる。

じっと手を合わせる人

何度も涙を拭う人、

慰霊堂の中へ入らずに、黙祷したままの人、

65年という刻をそれぞれの胸の中で

どのように乗り越えてきたのでしょうか、

今年も、あの桜が咲いています。