(根尾谷の『淡墨桜』)

春雨はいたくな降りそ桜花

いまだ見なくに散らまく惜しも

万葉集 巻十 1870 詠み人知らず

あれはもう15年ほど前のこと、加賀金沢の桜を堪能した夜、

一軒の店で隣り合わせた老人から

「桜はいいですな、夢を見ているようでした」

それは根尾谷の奥に咲くあの『淡墨桜』でした。

その淡墨桜を見てきたばかりだというその老人の話に

思わず惹き込まれてしまったのです。

「今が見頃ですよ」

(越前大野一乗谷の山桜)

宿に戻ると早速地図を広げた、

「越前大野から山を越せば

  根尾谷にはそう時間はかからないな」

と予定をたて、翌日は朝食もそこそこに金沢を後にしたのでした。

越前大野の一乗谷で悲しい色の山櫻に涙し、さて山越えをと向かうと

峠道は雪のため閉鎖中、尋ねれば

「五月の連休を過ぎなければ通行できませんよ」

とのこと、

「はて、今日中に根尾谷に着けるだろうか」

越前大野から福井に戻り北陸道を南下、米原から大垣へさらに

山に向かい樽見鉄道に沿って北上、根尾谷に到着した時は

すでに陽は西に傾いておりましてね。

10年ぶりの『淡墨桜』との再会は満開の櫻の下のことでした。

この『淡墨桜』は白色のエドヒガンで夕暮れの空の色を映して

淡い藍色に輝くのです。

人が『淡墨桜』と呼ぶことに何度も頷きながらじっと佇んでいると、

継体天皇が自ら手植えされたという伝説が信じられる気がいたしました。

毎年の春を迎えると、櫻を追い続ける旅の途中で

「根尾の『淡墨桜』を実生から育てた櫻があるのですよ」

という話を聞いたのは去年のことでした、

尋ねれば、

 淡墨桜の実生苗を当時の根尾村老人クラブの方々から

 昭和60年3月に下野国分の老人クラブが譲り受け、

 ここ天平の遺跡下野国分尼寺跡に移植された、

 実生からの開花はとても難しく、花が咲くまでには

 10年の歳月がかかるといわれている中で、

 昭和63年4月15日に見事に開花したという。

降り出した春雨に東京の満開の桜がハラリと散った、

その桜に背を向けて向かったのは下野国の国分尼寺、

暮れていく薄闇へ向かっていくと、なにやら刻を

遡っていく気になってしまいます。

国分尼寺といってもそれは千三百年前にあったもので、

今は礎石だけが残されているのです、その国分尼寺跡に

三十余年前にあの根尾谷の薄墨桜を実生苗から育てた桜が

平成の世に見事に咲いているのです。

「もしかしたら・・・」

という期待と共にその下野国分尼寺跡を訪ねました。

まるで真冬のような寒気の中で、見事な花を咲かせているのです。

よほどこの地の土に馴染んだのでしょうか、その数 9本、

根尾村老人クラブの老人達の手によって始められた夢は、

ここ下野国分寺の老人クラブの老人の手に受け継がれ見事に

花開いているのです、世の中には時間を掛けなければ出来ないことが

あることを、そして人を信じることでそれが叶うことを教えて

くれているのですね。

私は夕暮れの陽があの根尾谷で花の色を淡墨色に

変えたことを覚えておりました、

刻々と変わっていく花の色は、曇り空のやわらかい光を受けて

輝き出しました、「確かに 淡墨櫻です!」

もしかしたら、

20数年前にこの櫻の実生苗を育て、譲り受けた老人達は

もうこの世にいないかもしれません、

でもその櫻に掛けた愛と夢の想いは

きっと永遠に残り続けるに違いありません。

百年後、いや三百年後、いやいや八百年後だろうか、

あの根尾谷の淡墨櫻が継体天皇のお手植えの二本の内の

残った一本なのだという伝説を残したように、

「この櫻はね、今から二千年前の天平時代、

 都から下野の国衙に使わされた何某の役人が

 都に残した妻を偲んでふるさと根尾の淡墨櫻の

 実生苗を植えたものの一本なのだよ」

と語られているかもしれない、

その時、人々はきっとこう呼んでいるでしょう

「これが『天平の淡墨櫻ですよ』 と・・・