都会のざわめきの中から聞こえてきたのは

「般若心経」を唱える若い修行僧の声

その抑揚が揺れ動くのは、都会の雑踏に負けるものかと

肩を怒らした若者特有の姿のようであった。

比べるべきものではないが、

静まり返った深遠な山奥での修行も

この喧騒の真っ只中で声を出し続けていなければ

我をも見失いかねない己との対峙の修行も

どちらも意味のあることのように思われた。

「どうぞ」

背後から声を掛けてきたその女性は小さなパンフレットを

手渡してくれた。

何気なく受け取ったのはその美しい表情に断るきっかけを

失ったからかもしれない、

そのパンフレットに目を落とすと、そこには「招待状」と

あるじゃないですか、

二歩ほど歩くと身体が宙を舞ったように感じた。

「なんだ、ここは何処なんだ!」

あの喧騒の都会の真ん中に佇んでいたはずなのに

静まり返った紫色の空間には全く音がない。

壁の中から背中に視線を感じ振り向くと

微かに抑揚の定まらない「般若心経」が流れてくる。

「なんだ、先ほどのお坊さんじゃないですか」

先ほど見かけた若い修行僧が戸惑いの顔を向けて

「あなたが私をここへ誘い込んだんですよ」

「えっ!アタシのせいだったの」

「私も何が何だかわからないのです、気づいたらこの紫色の

空間にいたというわけで、そしたらあなたが向こうから歩いて

きたんです」

その時です、先ほどパンフレットを渡してくれた女性が

再び現れたのは、

「ここは街の中の狭間にある空間なんです、こちらからは

外の景色が見えますが、向こう側からはただのショーウインドー

にしか見えません」

「そんな世界があるのかい」

「いつもこちら側から見ておりましたら、あなたは必ず

カメラを出してショーウインドーを写されるのですもの、

 何だか私のこころを写されてしまったようで・・・」

「それでは貴女はこの世の方ではないのですか」

「実は私もどこの世界にいるのか わからないのです、

 確かにあの四丁目の角を毎日歩いて 勤め先に向かって

 いたのですが、何か大きな塊に弾き飛ばされて気が付いたら

 ここに居たんです」

「それって、もしかしたら交通事故にあわれたのでは」

「記憶がありませんので何も応えられないのです」

 私はまだお経をあげ続けている若い修行僧に向かって声を掛けた。

「君、あの世に送る為のお経をあげられるかい」

「ええ、何とか」

「この方のためにそのお経をあげてはくれないか」

若い修行層は声を高らかにそのお経をあげ始めた。

どれ程の時間が経っていたのかは全く判らなかったのですが

気が付くとその美しい女性は紅の光の差す奥へ向かって

まるで船に揺られるように小さくなるとやがて姿が消えてしまいました。

一瞬の静寂の後、街の喧騒が一気に押し寄せてきました。

気が付くとあの四丁目の角に立ち尽くしているではないですか、

辺りを見回すと、あの若い修行僧が夢中で般若心経をあげ続けていた。

「もう大丈夫だからね」

彼の肩をそっとたたくとつぶやくように伝えた。

若い坊さんはその場にへなへなと座り込んでしまった。

「こんなに疲れたのは初めてです」

「君はきっといいお坊さんになれるよ」

私は彼の手を引いて起き上がらせるとそう伝えました。

「またどこかで会えるかもしれないね、その時はよろしくね」

そういうと彼に別れを告げた。

「ハンニャーハラミッター・・・」

低いが安定したお経の声が私の背を押してくれていた。