百聞不如一見(百聞は一見にしかず)

百見不如一考(百見は一考にしかず)

百考不如一行(百考は一行にしかず)

「漢書」趙充国伝より

歳を重ねてくると、昔は何とも感じなかった言葉に

急に反応するようになってくるのはどうしてでしょうかね。

旅することを日常にしてみようと考えて始めたことは、

単なる好奇心を叶える為くらいの軽い気持ちでしたのに

続ければ続けるほどそこから見えてくるのは、

人生の在り様にまで影響し続けるという己の気質を

激変させていくことになるとは・・・

百聞不如一見(百聞は一見にしかず)

まさに旅を続けることはこの一行に凝縮されてくるのですね、

百聞とはまさに現代の情報化時代を象徴しているではありませんか、

百聞どころか、千聞、いや万聞といえるほどの

あるとあらゆる情報にさらされていると、

なにが大切で、なにがどうでもいいことかなんていうこと

までわからなくなるばかりですよ、

まさに 過ぎたるは及ばざるがごとし

とは現代を象徴している言葉かもしれませんですよ。

聞いた話で、自分も見てきた気分になるというのは

あくまでも想像の範囲で考えることで、

いくらその考えを人に伝えたところで真実はわからないまま

ということになるのではありませんかね。

いえね、真実がすべてに勝るとは思いませんが、

見るという行為は人間にとって重要な要素含んでいるのでしてね、

ただ目の前の通り過ぎていく様子を目で見るだけなら

確かに新聞、TVやインターネットの情報で事足りる

かもしれませんが、その現場に己の足で立ってみると、

目だけではわからなかった匂い、寒暖の差、吹き抜ける風の音、

遠くで囀る鳥の声なんていう情報が

思わぬ感動を呼ぶことに気付くはずですよ。

百見不如一考(百見は一考にしかず)

その旅先で感じてきたことをこうして文章に綴り続けてみる

という行為こそが考えるということに凝縮されてくると、

旅することがますます楽しみに変わってくるのですね。

見ることは、

「何だろう・・・」、

「何の意味だろう・・・」、

「ああ、そうだったのか」

などと、何度も、何度も語り続けてくることなんですね。

そのすべてを記憶に留めることは不可能ですが、

記憶というのは取捨選択されて一番印象に残ったことが

記憶の引き出しの中に仕舞われている気がするのでしてね、

その記憶は、自分でも忘れていたのに、ある日突然蘇るように

湧きあがってくるのです。

もしかしたら、その突然現れる記憶が感動の源泉に

なっているのではないだろうか、

そんなことを旅先で考えられたら、そりゃ人生楽しくなるというものですよ。

だってね、旅というのは、聞くと見るとは大違い 

の繰り返しなんですから。

旅というのは、晴れた日ばかりではありませんですよ、

雨の日、大風の日、雪だって降るし、

一日のうちに全部味わえるなんていうことだって遭遇するわけで、

それを苦痛に思うか、楽しいじゃないかと思うかで、

旅の記憶も百八十度変わってくるのも人生と同じですよ。

そうそう、ここで申し上げている旅とは、

半年も前から計画を立てて実行するなんていう旅のことではありませんでね、

縛られていた時間の中で見つけた自分のために使える時間を

ただ使うだけのことなんです、ですから、散歩ももちろん、

一時間電車に揺られて出かけることも旅と思うことなんです。

百考不如一行(百考は一行にしかず)

いつだったかの流行後に いつやるか 今でしょ

という言葉が氾濫してるじゃないですか、

そうです、いつ旅するか、今でしょ、

時間は待ってくれないのですよ、

そしてその時間は実に平等に過ぎていくんです、

あなたの持っている時間は、アタシより少ないなんてことはないのです、

まずは、その一歩を踏み出してみることですよ、

年齢が若いとか、歳とっているとか、そんなことを考える前に

まずは第一歩を、

ほら、花があんなに咲いているじゃないですか・・・