『 月日は百代の過客にして

 行かふ年も又旅人也

 舟の上に生涯をうかべ

  馬の口とらえて老をむかふる物は

  日々旅にして 旅を栖とす・・・』

芭蕉は「月日こそ永遠の旅人である」と言い残して

奥の細道へと旅立っていった。

 二度と逢う事のない 月日という永遠の旅人 に出会うことは

できないだろうか、

ふと、そんなことを考えていた時に、もしかしたらあそこへ行けば

出会えるかもしれないと本気に思えてしまったのです。

いつも想い付きで飛び出していく旅人にしてはなんだか

本気になれそうな予感を感じながらあの岬を目指しておりました。

いつもは真冬の寒風に晒されながらじっと佇んでいた岬の突端は、

夏の一日にしては穏やかな風が吹き抜けていた。

何度もこの断崖の突端から眺めた景色は変化の無い月日そのもの

ではないですか、

しかし、私が毎年通い続けたこの断崖の月日は、

変わらないことは無かったのです。

そう、まだたった10年前の春浅い一日、

一直線に立ち上がった大波は軽々と防波堤を乗り越えて

あの変わらないはずの漁港をずたずたに押しひしげてしまった。

それから一年目、三年目、そして10年の月日は、

まるで何事も無かったかのようにあの昔の景観に戻っていた。

月日とはどんな変化さえもその懐に抱き込むと、

いつの間にか形を整え、変化の跡さえも残しはしないのです。

月日の姿を確かめられるのは、今、目の前に広がる瞬間だけ

なんですね。

しかし、同じ場所に佇んでみれば、記憶の中の景観が

次々に浮かび上がってくるのです。

目を細め、耳を傾ける、

繰り返し聞こえてくるのは 波の音、

同じ波は無いはずなのに、その波の音は永遠を響かせている。

「月日は繰り返す輪廻」

今、目の前に繰り返し響いている波の音は

もしかしたら月日が姿を変えて現れているのかもしれない、

月日は永遠の顔をしていつも目の前に現れては消えていく

つかみどころの無い透明な息遣いなのかもしれない・・・

目をつぶって耳だけで感じてみる、

二年前が、五年前が、十年前が浮かんでは消えていく、

  月日は百代の過客にして

 行かふ年も又旅人也