「なぜそういつも神社仏閣を訪ねるのですか」

とある方に聞かれた、

そう真正面から質問されたことがなかったので

考えたこともありませんでした。

「はて、なぜでしょうね」

勿論、そんなに信仰心の厚い方でもないし、

何が何でもというほどでもないのに、旅先で神社仏閣に

出会うと素通りできないのです。

思い当たるのは、神社仏閣の静謐な佇まい、

変化しないことの安心感、なのかもしれませんね。

「雪の道を歩いてこよう」

そんな単純な理由でふらりと旅に出た、

北に向かう先に真っ白な雪山が望める渡良瀬川の堤に佇むと、

猛烈な空っ風に思わず震え上がる。

「この風ならもしかしたら遠望が利くかもしれないな」

当然のように雪道への旅は止めて、遠望の地へと方向変換、

こういう変わり身の早さがひとり旅の面白さなんですよ。

神橋を渡ると全く変わらない参道が山の頂に続いている、

平将門の仇敵藤原秀郷を祀る唐澤山神社を訪ねた日から

何時の間にか5年の歳月が過ぎているのですね。

唐澤山は悠久の時を刻みながら全く変わらぬ姿で

そこにある。

山道を登り、最後の急な石段の途中で胸が苦しくなったのは

3年前のこと、石段も神社も何も変わらないからこそ、

自分自身の変化に気付かされるのですね。

医師の診断に従って治療を受けた御蔭で、今は大分戻っている、

その最後の石段を一歩一歩登る、

「大丈夫だよ」

とひとり呟く、

後ろから若者の声がする、振り向くと二人はその石段を

うさぎ跳びで一気に上りきった、

「若いっていいな!」

陸上をやっているというその若者は、本殿で手を合わせると

再び走って急階段を駆け下りていった。

ひとりぽつんと残されたおじさんは、健康を取り戻せた感謝を

込めて手を合わせるのでした。

そういえば、初めて訪ねた日に出会った老婦人(確か80歳だった)は

あの階段の手前で、

「もう登れなくなりました」

とその場で孫の帰りを待っていた、

やがて自分もそういう時が来るのでしょう。

照顧脚下(しょうこきゃっか)ということか・・・

参拝を済ませるとあの天狗岩へ、

先客がひとり強烈な空っ風のなかで遠望を楽しんでいた。

「ここからスカイツリーが見えるんですよ」

指差す先に、あの鉛筆のような姿が微かに見えた。

「富士も見えますよ!」

寒さも忘れて二人でじっと見つめておりました。

今しがた、照顧脚下(足元を見つめなさい)と思ったばかりなのに、

もう遠くを見ることに夢中になっていた。

どうやらまだ老け込むには早いかな。

下野 唐澤山にて