旅(散歩も含む)することを日常にしてみたら

人生の最終コーナーを廻ってから楽しみが増えるのでは

ないか・・・

と単細胞の頭が思いついたことは

焦らず、目標も定めず、ただ淡々と過ごしてみようと始めた

旅の人生は、

想っているのといざやってみるとのギャップが凄いのですよ。

春は桜、夏は祭り、秋は紅葉とこの三季節は旅が楽しくて

止めようなんて想ったことは一度もありませんでしたよ、

しかし、これが冬になると、あたりの景色は色を無くし、

寒さで手は悴むし、鼻水は出るし、歩いていても楽しくありません

ですよ、そこで気合を入れようとこれまた思いついたのが

一年で一番寒い 大寒 にはわざわざ寒風吹きすさぶ場所へ赴いて

どれほど自分が耐えられるか試してみよう、

要するに、寒さを克服できたらあとは楽だろうという

フーテンオヤジが考えそうなことですよ、

そりゃ、気前よく神田明神の寒中禊で氷のような水を被る

なんていう荒業が出来ればいいのですが、大体あの寒中修行は

中山法華経寺の百日大荒行の修行僧でも60歳以上は危ないと

参加できないのですから古希を超えた爺には命がいくつあっても

足りませんですよ。

それで、思いついたのが寒風吹きすさぶ海辺を旅し、

山から吹き降ろす颪(おろし)を受けに赤城だ、筑波だと

冬を歩き回って十年が過ぎましてね。

さすがに還暦からの十年は気持ちだけでは乗り越えられなくなって

いることを身を持って感じるのでありますな。

人生は連続しているのですから、そんなに変化をもたせなくても

年だけは順調にとっていくのですね、

だから、区切りというものを取り入れないと、生きているのだか

呆けちゃったのか判らなくなるのですね。

その区切りの古希を乗り越えたところで、寒さへの挑戦は終了いたしましょう、

いえ、だからといって、炬燵でみかんなんていう生活にはまだまだ早いでしょう、

すかっと晴れ渡った冬空を見上げながら歩き出したのは、

いつもの見慣れた町、

おう、あたしよりかなり先輩の婆さまもひとり散歩を

楽しんでおりますよ、

その婆様が出てきたお稲荷さんで手を合わせ、ひょいと隣を

見れば立派なお寺さん、ちょいと訪ねてみますか、

真言宗豊山派の観音寺、浅草の初観音に参拝したばかりですが

観音様は何度伺ってもイヤな顔はされませんでしょう、

本日こちらの観音寺で旅の無事をお願いして ひょいと

眼を移すと、なんと寺に居ついた猫たちの出迎え、

鳴き声ひとつあげずにじっと視線を送り続ける態度に、寒さなど

感じさせないストイックさを感じますな。

すると柱の影からそっと顔を出した子猫のひとみの美しいこと、

迷いの無い顔ですな、

そうか、いつも迷ってばかりいるあたしの瞳なんぞ、きっと

濁りに濁っちまっているんでしょうな。

よし、今年は迷うことを止めよう、

十年続けられる保証はもうありませんから、せめて一年続けてみましょうか、

そうと決まれば、今年の 大寒は寒くは感じなくなりましたよ。

猫達に見送られながら歩き出した寒中散歩でございます。