(山谷堀跡は桜並木が続きます)

最近は東都の桜といえば、上野、向島、飛鳥山と相場は決まって

おりまして、アタシが毎日ウロウロしている浅草は桜の名所からは

遠くなっておりましてね、

昔のことを抉り出しても、なんだか死んだ子の歳を数えるみたいで

悲しくいなるばかりですが、かっては浅草も浅草千本桜なんて

呼ばれていた時代があったのですよ。

まあ千本とはちと大袈裟ですが、雷門の前の道には桜並木があり、

浅草寺の境内はもちろん、隅田川のほとりまでそれこそ桜に

埋もれていたんですよ。

浅草はかつては江戸の端っこだったんです、

徳川様は江戸に人が集まりだすと、当時は人口比率が男が2/3、

女の人が1/3と女人が極端に少ない変則的な町だったんですよ、

人間は悲しい動物で、男が集まりすぎると喧嘩が日常茶飯になるのは

火を見るより明らかですよ、

幕府に、遊郭の申請が起こされたのは時代の要請だったのです、

いや、昔の話ですからそう柳眉を逆撫でないでくださいよ、

(大島桜)

江戸の葦原だった芳町に許可が下りたのは、幕府の意向と、

遊郭主の利害が一致したということでしょうね、

しかし、いくら幕府公認といえども、もぐりの岡場所が彼方此方に

出来るのは風紀上よろしくありませんですよ、そこに起こったのが

江戸の大火、みんな焼けてしまって遊郭を無くすにはいい機会だと

思うのですが、

そうならないのが人間の悲しい性でしてね、場所を変えて再申請が起こされ、

その場所が浅草寺の裏、吉原に再興されたのです、昔から神社仏閣の周りには

岡場所が自然に出来上がるのは、きっと

「ちょっとお参りに行ってくるよ」という

口実が必要だったのでしょうね。

その吉原遊郭に桜が植えられていたことは、浮世絵や、歌舞伎の舞台に

残されておりますが、その桜の作り方はいかにもバブリーなやり方でしてね、

毎年三月朔日より、吉原大門の内に、左右をよけて中通りへ桜樹を

植えたのですね、そして桜の花が終わるとその桜木を撤去して別の木を

植え替えたとか、桜は完全に芝居の舞台の背景扱いだったのですね。

この吉原に通う方法は、もちろんタクシーなんてものはございませんよ、

そう一番の方法は、猪牙舟に揺られて吉原通いというのが粋なやり方だったん

ですね。

その昔、飛鳥山の音無川から分かれた堀が大川に向かって流れていたんです、

なにやら、人間の都合で造られた気はいたしますが、山谷から大川に流れる

部分を山谷堀としてこの猪牙舟の行き交う通路として大いに利用されたのです。

この山谷堀は、聖天様の先で大川から分かれ、今戸橋、聖天橋、吉野橋、

正法寺橋、山谷堀橋、紙洗橋、地方新橋、地方橋、日本堤橋と九つの橋を

潜って吉原大門前に着けられる仕組みだったんですよ。

今でも、このいくつかの橋の名前になった地名は町の彼方此方に残って

いるのですよ。

さすがに、吉原遊郭が消滅すると、この山谷堀もその役目が終わり、

堀は埋め立てられ、細長い公園として生き続けることにはなり、

約700mほどに桜並木が出来上がりましたが、どうも、その成り立ちが

庶民にには受け入れられず、なにやら陰のある裏寂しい雰囲気が

残っているようで、あたしみたいな桜好きが歩いてみても

桜までが、悲しい想いをした遊女達と重なって心から明るい気分に

なれないのは、この地が持っている地霊がそうさせるのでしょうかね。

満開の大島桜を見上げながらトボトボ歩く桜散歩でございます。