「当てにするから腹が立つ」

TVの中のその人はそんな言葉を書いた、

思わず噴出すほど何の抵抗も無くその言葉が

するりとこころに宿ってしまったのだろうか、

外れた天気予報に腹を立てようとして

「やっぱり晴れを当てにしていたんだ」

と自らに噴出しておりました。

気温15度、青葉が目に沁みる池の辺で寒さに震えている。

季節がまるでひとつ前に戻ってしまったらしい、

でも桜が咲き始める頃なら、15度という気温は

「随分春めいてきたな」

と感じたはず、人間の感性は15度という絶対温度に

片や寒いと感じ、もう一方では 暖かくなった 

と感じるのですね。

これが季節の移ろいを肌で感じるということなのでしょう。

気温ひとつにしても、同じ人間が寒くも暖かくも感じる

自分が幸せかどうかなどという感覚はきっとその日の気分で

どうにでも変わってしまうものなのでしょう。

どう判断するかは、過ぎし人生の中で記憶に残ったことだけが

判断材料になるのです、記憶に無いことはすべて価値判断の

対象にはならないのですよ。

その手繰り寄せた記憶の中から都合のいいものが出てくれば

気分が良くなるだろうし、嫌なことばかりが噴出してくれば

時には生きている価値さえないように感じてしまう。

物事を判断する基準は人によって全て違うのです、

残っている記憶が夫々違うようにね、

例えば、今ここに千円札一枚だけが残された状況の中で

「まだ千円残っているじゃないか」

と考えるか

「もうたった千円しか残っていない」

と感じるかで答えは正反対になるでしょう。

 幸福だと感じるか不幸だと感じるか

人生、結局なるようにしかなりはしないのですから

幸福だと感じている人が不幸だと感じている人より優位だ

ということもありはしないのです、

時間と共に流れていく人生、行き着く先はあの世という

全く同じところだと思えば、

あくせくと不幸に生きることもないし ことさら

声高に幸せだと叫ぶ必要もなし、

静かに人生が過ぎ行くまま、風に吹かれ水の流れるように

身を任せていけたらそれでいいのかもしれませんね。

幸せを探し求めて、もしそれを手に入れたとしても、

また直ぐに次の幸せを求めて悩みだすのがどうやら

人間という生き物らしいのですから・・・

「オヤジさん さっきから何ブツブツ独り言いってるのさ」

池の辺で向かい合ったそいつは一度も目をそらすことなく

「悩んでも仕方ないよ」と呟いた。

「お前さん 哲学者みたいな面構えだね 悩みは無いのかね」

「陽が落ちれば夜が来るだけさ」

犬にしておくには勿体無いほどの落ち着いた面構えで

そういいはなった・・・

「そうだったね、この池だってもうすぐ蓮の葉で一面覆われて

しまうだろうし、 あの黄菖蒲だって萎れてしまうことを

 悩んだりしちゃいないよな」

僅かな時間だと思っていたのに何時の間にか夕闇が辺りを覆い

つくしておりましたよ。

さてと、旨いモノにありつきにまいりますか、

最後まで残るのは食欲だといいますからね。