江戸の天明三年 浅間山大噴火によって農作物が全滅した際に

これから立ち直ろうと祭礼山車によって曳き回しを行い

豊作を祈願したことに始るという久喜八雲神社の祭礼は

毎年7月12日から18日の期日に行われておりましてね、

かつては牛頭天王を祀る天王社の祭礼だったため

「久喜の天王さま」と親しみを込めてこう呼ばれていたといいます。

明治の神仏分離は、仏式を排除したため天王社は八雲神社へと

名を変えていることは、全国各地に見られることになってしまいました。

京都の牛頭天王を祀る八坂神社は古くは祇園御霊会と呼ばれ

京の都に疫病が流行したとき、勅を奉じて祇園の神を迎えて祭った、

その祭りは祇園祭と呼ばれるようになると災害や疫病に対して

牛頭天王を祀る社が全国に広がっていったのです。

神社の名前は変えられても、、祀る神は牛頭天王さまということは

変えられなかったのですね、

今でも各地に残る八雲神社の祭礼は天王さまと親しみを持って呼ばれて

いるのです。

まだ梅雨は明けていない7月12日、むせかえるような暑さのなか、

久しぶりに久喜の町を訪ねます。

最近では祭りというと、祭日を土日に変更して行うことが当たり前に

なっておりますが、此処久喜の祭礼はきちんと祭日を守っているのです、

駅を降りると、やはり平日のため、人の数は閑散としています、

今回の目的は、関東一といわれる提灯山車の組み換えを見てみたいと

いうことなのです。それには平日の人波の少ない日のほうが

ゆっくり観察できるということなのです。

(八雲神社お仮屋)

まずはお仮屋に伺い、鎮座される宮神輿に参拝、手を合わせていると

丁寧に御祓いをしていただき、身の引き締まる思いでございます。

今回で4度目の訪問ですので各町内を廻ってみたいと思います。

久喜の山車が曳き回されるのは初日の7月12日と最終日の18日の二日間だけ、

特に午前中は山車の上に人形を乗せて曳き回されるのですが、

三時を過ぎておりますので人形は山車から降ろされ、各町内のお仮座に

置かれているのです。

(本三町内の神功皇后)

(志ん一町内の日本武尊)

本壱が素戔嗚尊、本二が武内宿禰、本三が神功皇后、

新一が日本武尊、新二が神武天皇、仲町が織田信長、

神話の神様の中に織田信長公が少し場違いな気がいたしましたが

各町内の事情が垣間見られて中々興味深々でございます。

さて各町内ではいよいよ提燈山車の組立が始りました。

祭りは神輿や山車が曳き回されるところばかりが

脚光を浴びるのは仕方ありませんが、この祭り支度にこそ

その町の祭りにかける意気込みが鮮明に現れるのです。

(本一町内の武内宿禰)

(仲町町内の織田信長)

那須烏山の山あげ行事、秩父の地歌舞伎舞台の祭り支度は

その舞台つくりに大勢の人々が係わり、それ自体が祭りの

ハイライトのように思えるのです、

さて、久喜の山車の組替えは・・・

山車の上に家の建前のように骨組みを造っていきます、

鎹が付けられ、高さは7,8mくらいでしょうか、

その骨組みに十数人の若衆たちが取り付き、柱に竹棒を

くくりつけていきます。すべて紐できつく結んでいくのです。

経験の浅い若衆には先輩が丁寧に指導しています。

祭り支度は人と人を結びつける大切な機会なんですね、

こうしてひとつひとつ人から人へ伝えることで

二百数十年も続く祭りが残されているのです。

一番上に上がった若衆が組み立てを揺らし始めます、

強度を確かめているのですね。

山車の下では子供達が提灯を箱から出して地面に揃えています、

なんとその数は山車一台に五百個近くなるといいます、

その提灯をいよいよ山車に結び付けていくのです、

すべて手作業なんです、なんと手間のかかる作業でしょうか、

現代は何でも合理的に片付けることが良となってしまいましたが、

祭り支度だけは、全く時代と反対の作業が続けられる唯一の

ことなのかもしれません、この作業にはコンピューターは

全く機能いたしませんよ、全て人間の持つ勘と経験に裏づけ

された作業の連続なんです、

みんな大汗かいて作業しながら笑顔なんですね、

遣り甲斐のある仕事とは、人のこころを豊かにするのなのですね。

こうして二時間以上の手間と労力の結集された提灯山車が

出来上がるのです、

提灯がすべて山車に取り付けられて完成ではありませんよ、

この提灯に全て蝋燭を取り付ける作業が残っています。

高いところは若衆たちが、低いところは子供達がみんなで

作業を続けてやっと提灯山車の支度が整ったようです、

祭りとはなんと素晴らしい人間ドラマなのでしょうか。

(2016年7月記す)