祭りの日になると、神は遠いところから訪れてくる、

日本の季節祭りのほとんどはこのような形態をとって

神とヒトが一体になって繰り広げられるのです。

昔から、人々は神の姿を想像でしか感じることが

できないのですが、

それでも、神は笠を深く被って顔が見えなかったり、

常人ではない装束で祭りの場に現れると信じたのですね。

その神を迎えるにあたって、畏敬の念を持ち、充分な饗応をし、

唄や踊りを奉納して持て成すことこそ祭りを行う本意なので

神はその持て成す人々の生命の永くあることを祈り、

生活や生産が豊かになるようにと祝言を述べて去っていくのです。

この一連の饗応をヒトは祭りと呼んで何時の時代でももっとも大切な

儀式として守り伝えてきたのですね。

神は穢れを嫌うと信じてきたヒトは、その穢れを祓うために

数々の儀式を紡ぎだしてきたのです。

ヒトは神の近くに寄り添うために 禊を行うことを自らに

課し、その禊の姿こそが祭りの一番大切な行事として

今に残されているのです、

その方法は千差万別、その地域によって全て異なるのですから、

祭りを訪ねる旅が終わりの無い旅になることは自明のことなのですね。

禊の方法に使われるのは、水であり、塩であり、火であることが

大切に守られ、

特に水と塩が一体になった海こそは、禊の効力が絶大であると

信じられてきたのです。

祭りの中で、神輿を川や海に沈めることは、このことを如実に

著しているのです。

そして、何処か遠くからやってくる神は、ぐるりを海に囲まれた

この国では、海の向こうからやってくると信じられていたのでしょう。

この海とかかわりを持つ神を祀る祭りが多いことで、このことが

推測できるでしょう。

霞ヶ浦はその名のとおり、かつてはこの地は海に面していた土地でした、

昨夜の橋門の祇園祭の中で、

「この先の集落で今でも船渡御をやる祭りがあるんだよ」

と、老人がそう教えてくださった、

日にちは明日だという、

ここまで来て見逃す手はありませんですよ、次は一年後ですから、

聞いたら訪ねるのが祭り旅の鉄則なんです。

ギラギラと照りつける真夏の太陽に霞が浦が輝いている、

教えられた五町田の集落は、何の変哲も無い農村集落でした、

かすかに祭り囃子の音が聞こえる、

その方向へ歩いていくと、山車の姿を見つけた、

子供を含めて30人くらいの集団が、太鼓と笛の音にあわせて

山車を引いてくる。

祭り衣装に身を包んだ若衆は4人、

御囃子の出きる若者がもうこの集落には居ないのだと

太鼓のバチを持つオヤジさんがすこし寂しげに話してくれた。

昔とった杵柄というのでしょうか、見事なバチさばきが光ります。

船渡御のことを尋ねると、これから八坂神社へ神様を迎えに

行くところだという、御囃子を奏でながら、山車の一団が、

田圃道をゆっくりと、そしてのんびりと進んでいく。

どうやら正確な時間が決められているわけではないらしい、

お囃子が聞こえると、近所の人がみんな顔を出す、

いよいよ神様が動き出す時刻だとみんな知っていたんですね。

八坂神社では宮司さんと稚児役の少年が正装で山車の到着を

待っていた、宮司の後ろには小ぶりだけれど由緒ありげな神輿が

四人の男衆に担がれている。

「神輿をみんなで担がないのですか」

と訪ねると、

この神輿を担げるのは、四軒の頭屋の決まったヒトだけに許される

もので、他は誰も神輿を担ぐことができないと教えられました。

宮司さんと稚児の少年を先頭に、いよいよ神輿が動き出す。

一軒づつ氏子の家の前で神輿が止まると、その家から、手に手に

御賽銭や中にはお米を神輿に奉納すると、神輿の下を潜りぬけるのです。

「これでまた一年元気でいられるのよ」

見事な無病息災の儀式が道々に行われていくのです。

神輿の後ろからはエプロン姿のお母さん達がお重を抱えてみんなに

なにやら配っているんです。

「どうぞ」

と出されたのは、かなり固めの真っ白なおこわでした、

掌にいただき口に運ぶと、お米の甘さが口いっぱいに広がった、

これは紛れも無く 直会の食事です。

先ほど歩いてきた田圃道を抜け、小さな港へとやってきます。

神輿と宮司、稚児、四人の頭屋、そして役員が船に乗り込むと、

山車から、太鼓、締太鼓、鼓が別の船に運ばれその船は下座船に変わる、

行事役のもう一艘の船が揃うと、下座船の御囃子に合わせるように

沖に向かって三艘の船が走り出していく。

その様子を、港からみんなで見つめるのです。

「何処までいくのですかね」

「丁度沖合い1km位のところで七回り半転回するんです」

時間にすると30分くらいでしょうか、

やがて禊を終えた船渡御の一団が港に戻る頃、空には薄闇の帳が

覆い始めておりました。

再び四人の頭屋に担がれた神輿は田圃のある四辻に設けられた

お仮屋で一晩過ごすという。

ここは半農半漁の集落、やはり万年豊作と大漁豊漁の両方を祈る

祭りだったのですね、それに疫病祓いも重なったヒトの生きる力を

持った祭りこそが時代を超えてヒトのこころを捕らえ続けているのです。

浅草からやって来たと言うと、

「随分祭りが好きなんですね」

と皆さん温かく歓待してくださった。

神輿一基に山車一台の祭りが、こんなにきちんと伝わっていることに

感動を通り越して涙が出るほど感激してしまいました。

「ところであの神輿は随分静かに運ばれるのですね」

「実はあの神輿にお乗りになられるのは昔から女神様と

伝わっているんです」

すると、スサノオノミコトではなくクシナダヒメだったのですね。

こうして一日目の祭りは静かに更けていくのでありました。

翌日、お仮屋に顔を出すと、夜の九時過ぎに神社へ還御されるとのこと、

何しろ、祭りの間中、余所者は私ひとり、これ以上お邪魔するのも

申し訳なく、厚く御礼を述べ、素晴らしい祭りを後に致します。