東京駅を9:30に発車した列車は4時間後には広島駅に

一分の狂いもなく到着した。

時速250kmという途方もないスピードを当たり前の日常

にして一日に数えきれないほどの列車が行きかっている

日本とはなんという国なのだろうか。

旅に飛行機を使うことを止めてからは毎年必ず訪ねる

九州へは、その時速250kmの列車を使うことになるのです。

そして必ず途中下車をしてみるには列車旅もなかなかのもの

なんですね、飛行機では途中下車は不可能ですからね。

広島への最初の旅は、自らハンドルを握って12時間かけて

やってきたのでした。

その日は、疲労困憊でホテルのベットに倒れ込んでしまった。

旅先での時間を多く使いたい旅人には、飛行機をやめると

やはり250kmで突っ走る列車の他に選べる方法がないのですね。

昨年に引き続き九州への途中で広島に降りたのには理由が

あったのです。

71年目にして米国大統領が広島を訪ねた。

その広島をもう一度この目でしっかりと感じておきたかったのです。

時速250kmで移動する列車の窓の外を流れ去る景色を追っていると

めまいがしてきます。通過する駅はただ線となって流れ去る、

どこの駅なのか自らの眼で確認することは出来ないのです。

そんな列車を降りて、駅前から路面電車に乗り換えると、

やっと人間らしさを取り戻せた気がいたします。

大繁華街へと変貌した広島の街を、つい最近、赤ヘルの選手たちが

パレードしたとその時の模様を、路面電車の乗客は胸を張って話してくれた。

喜びこそが希望になりえることを。

太田川に架かるT字型の相生橋の上で原爆ドームを見つめる。

昭和20年8月6日午前8時15分17秒、

31,600ft (9,632m)上空のB-29からこの相生橋を目視して

原爆リトルボーイが自動投下された。

放物線を描いて約43秒間落下した後、相生橋よりやや東南の

島病院付近高度約600m上空で核分裂爆発を起こし炸裂。

爆発の瞬間における爆発点の気圧は数十万気圧に達し

核分裂で出現した火球の表面温度は数万度に達した。

爆発で放出されたエネルギーは約63兆ジュール、

TNT火薬換算で1万5千トン(15キロトン)相当に及んだ。

被爆当時の広島市中人口は約35万人、

爆心地から500メートル以内での被爆者では、

即死および即日死の死亡率が約90パーセントを越えた。

(71年目、米国現職大統領は折り鶴とメッセージを残していた)

1945年(昭和20年)の8月から12月の間の被爆死亡者は、

9万人ないし12万人と推定されている。

今日も、世界中からここ広島に多くの人々が集まってくる。

その数は年間100万人を超えている。

「広島平和会館原爆記念陳列館」の中では、無言の列が

続いている。

「平和へのメッセージ」として専用のノートに多くの人々が

メッセージを書きのこしていた。

30年前、初めて訪れてから今年で4回目、

感じ方は同じということはない。

加齢とともに、涙を流すことが増えている。