旅の途中

ブルースの聞こえる店

歩いているうちに急に身体中から力が抜けてしまった

ようで眩暈さえしてきてしまった。

「おかしいな、どこか身体の変調だろうか」

しかし、動悸も乱れていないし、眼が霞むほどではない、

うん、待てよ、そうだあまり夢中で歩き廻っていて

まだ食事もしていなかったのですよ、

どうやら、摂取カロリーを制限しているので、

身体に余力が無くなってしまったに違いない、

どこかに食事のできる店はないか・・・

その小さな看板には『食事できます』と手書きの文字、

まるで夢遊病者のように店の扉を押しておりました。

するとその扉の向こうにもうひとつの扉があるのです、

「どうなってるんだこの店は」

まるで素人が建て付けたようなその扉は、ギギーっと

盛大な音をたてて開いた。

明るい路を歩いてきた者には、その暗さに馴れるまで

しばらくその場に立ち尽くすことになるのです。

ようやくその暗さに眼が馴れると、さして広くない店内には

時の流れだけが造ることのできるヤレタ品物が散りばめられて

いる、ガラスの無い枠組みだけの窓の向こうには、セスナに

毛の生えたようなプロペラ飛行機が空に向かって急上昇している、

その真下には客船が浮かんでいる。

壁際には、ロシナンテにまたがり従者サンチョ・パンサを引きつれ

旅に出るドン・キホーテが得意げに胸をそらしている。

「誰もいないのかな」

よろける様に小さなテーブルの傍の椅子にへたり込む、

「いらっしゃいませ」

何処から現れたのだろうか、その女人はささやくように

目の前に立っていた、

「あっあの、なにか食べることできますか」

彼女は無言で小さなメニューを手渡すのです、

「これをお願いします」

とそこに書かれている文字を指差すと、

微笑みだけを残して奥へ消えた、

後ろ姿を見送っている私、

髪の毛は腰まで届きそうなくらいに長く、

ベレー帽を被っている、

チェック柄のフレアースカートの足元は

ピカピカに磨かれた黒い靴、

まるでこれからどこかへ出かけるようなイデタチである

それなのに歩く足音がまったくしないのです。

確かに部屋の奥で鍋がこすれる音がしている、

「それにしても随分時間がかかるな」

何しろ客は私ひとりである、仕方なく部屋を見回すと

沢山の帽子がいたるところに置かれ、その脇から

ピカソがじっとこちらを見つめている、

「お待たせしました」

またあの囁き声です、

「食後に珈琲もお願いしますね」

「ごゆっくり」

彼女の声を聞いたのはその三言だけでしたが

その度に、微笑みだけを置いていくのです。

夢中でその食事をむさぼるように食べました、

不思議な味です、

食べているうちに、身体と心が遊離してくるようなのです、

それでも、身体中に元気が漲りはじめました。

「これ、わたくしからのサービスです、デザートにどうぞ」

驚いて彼女を見つめました、

あの微笑みは変わらないのに、瞳だけは凍りつくような視線、

私は腰を浮かせると、料金を払い店を飛び出しました。

その時、微かに店から漏れてきたのは切ないようなブルースでした。

その店は何処にあるのかですって、

微かに海の匂いがしていたことだけは覚えているのですが・・・

Categories: 日々

『観蓮節』 » « 谷中夏散歩

2 Comments

  1. 散人さま
     ひさしぶりに
     今と幽玄のはざまを見せていただきわたしまでブルースが聞こえたような気持にさせて  
     いただきました。
     散人さまだけの世界観ですね。
     

    • sanjin

      2019年6月13日 — 3:41 PM

      まい様
       お元気ですか、
      旅に出ることがめっきり少なくなりました、
      日々の過行く中で、いよいよ夢と現(うつつ)の境を
      行ったり来たりする楽しみをみつけております。
      人生の楽しみは案外年老いても見つかるものですね。
      これも、健康であればこそですね。
      いよいよ夏本番、ご自愛くださいまし。

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