十一月というのは秋かと思うと急に冷たい北風が

吹き始め 

「なんだもう冬なんだ」

と思い直したりするのですが、

だからといって師走にはまだ早いし

いつもあくせくしていないと落ち着かない浅草っ子

には中途半端な時季なんでございますよ。

(江戸時代の福熊手は両脇に和紙の四手(しで)が附く)

そんな十一月にも

「何か祭りはないものか」

なんて考えていた御仁がきっといたんですよ。

関西じゃお酉様の縁日はあまりやらないようですが、

関東じゃなんてったってヤマトタケル伝説があちこちに

伝わっておりますから、方々にそのヤマトタケルの命を

祀った神社がありますでしょ、そんな神社のひとつ

花又村の大鷲神社で十一月の酉の日に縁日が開かれて

いたのだとか、

(明治時代の福熊手は随分すっきりしてました)

そこでは鷲大明神に鶏を奉納することが行われていたのですな、

縁日が終わると、その鶏たちは浅草観音堂前に運ばれて放たれて

いたのだそうで、多分、放生会のためだったのかもしれませんが、

その様子を見ていた浅草っ子の誰かが、

「おい、浅草でも暇な十一月の酉の日に祭りをやろうじゃないか」

と思い立ったって不思議はありませんやね。

なにしろ二度の飯より祭り好きが集まる浅草ですから、

その祭りにたちまち人気が高まり人が集まり始めたんですよ。

祭りなんてものはきっかけはきっとひょんなことでも、

それを面白がる輩がどれほどいるかで勝負がついてしまうのですね、

人が集まれば、縁起物を商う店がこれまた洒落から発想したような

品物を並べるんですな。

「運をかっこむ熊手だ!」

その熊手に千両箱や宝箱、おかめの面を埋め込んで並べれば

あれよあれよと売れ始める、

「毎年、大きくしていくと運も福も大きくなるよ」

と売り方にも工夫があるんですね。

いつのまにか、商売繁盛に効き目があるってんで、

これが大人気、

まさに

 「笑うおかめが縁起の熊手 江戸も名残の酉の市」

と定着したんではないですかね。

十一月の酉の日は二回ないし三回あるのですから、

十二日ごとに祭りが開かれるようになったという

ことでございますな、

目出度し、メデダシ!

ああ、今年は二回しかありませんでしたね、

それじゃちょいと二の酉へ・・・