明治21年(1888年)7月15日朝の7時45分、

会津富士、宝の山と呼ばれていた磐梯山が爆発した。

それはたった120年前のことなのです。

なぜたった120年と思えるのかというと、

それは私の父の生まれる15年前のこと、

そしてまだ私の爺ちゃんや婆ちゃんが活き活きと生きて

いた時代の出来事だからなのです。

小磐梯の山体は粉々となり北麗の斜面を一気に流れくだり

山麓の集落を直撃した。

その流れ下った岩屑は川を堰き止め雄子沢 細野 小野川 

秋元原の各集落を水底に沈めた。

 埋没破壊戸数 約100戸  死亡者  477人

凄まじい自然の猛威の前で、人はどうする術も持ち合わせてはいない

30年前、まだ健在だった義父とこの場所を訪ねたことが

ありました、

桧原湖に船を浮かべた義父は、船を止めると湖の底を指差した、

透明な水の底にはっきりとかつて人の住んでいた家々が

見えるのです、

その船の上で義父からこの大噴火の話を聴いたのです。

それはなんともいえない哀しい話でした。

船から上がると、その噴火で出来た桧原湖、小野川湖、秋元湖が

一望できる展望台に上がり、

「ここからの景色を目に焼き付けておきなさい」

そう言うと、義父は大粒の涙を流した。

山の大好きだった義父は八ヶ岳の麓でその生涯を閉じたのです。

あの時義父と肩を並べて眺めたあの場所をもう一度訪ねようと

想ったのはあの爆発の話をしてくれた義父に会えるかもしれない

とふと想ったからかもしれません。

夕暮れを待って会津の街からもう一度あの山を登り始めた、

一時間かけて桧原湖の辺に到着した時は、もう観光客はあらかた

帰路についておりましてね、

湖を渡る透明な風だけが水面を小刻みに揺らしている。

もしかしたら、この風の中に、水底に沈んだ多くの人たちの声が

聞こえるかもしれないと耳を澄ませた。

西の空を紅色に染め始めた秋の陽が沈むと、秋風は冷気を含んで

入ることを気づかせて吹き抜ける、

そうだ、あの展望台だ、

今もあの集落を水底に沈めたまま、何と言う美しさだろう、

自然は時には悪魔かと思うほどの惨劇を人間達に与えたはずなのに

この美しさは何だろう・・・

まるで何事も無かったように葉は彩を増し、

カサカサと風に吹かれて微かな音をたてるばかり

「オヤジさん、今も美しい姿はあの日のままですよ」

そう呟いてみた、

シルエットになった磐梯山は何事も無かったように南の空に

くっきりとその姿を見せている、

東の空に十六夜の月。

どのくらい其処に佇んでいたのでしょうか、

「寒いな、もう山は冬の顔をし始めているよ」

そして、ゆっくりとゆっくりと車を発進させた旅の途中です。

2008年10月 福島 裏磐梯にて