江戸城のニの丸から本丸へ向かう坂道を

今は「梅林坂」と呼ばれている。

勿論、庶民の目に触れる場所ではなかった、

江戸城とはいえ、徳川家康が入城する百五十年前に

太田道灌が築城した平山城である。

道灌は現在の本丸辺りに静勝軒と呼ばれる居宅を設け、

城内に菅原道真公を祀る北野天神を建立し梅の木を

植えていたと伝わっている。

江戸城の中に梅林があるのは築城当時にまで遡るのですね、

太田道灌がなぜ菅原道真を信奉していたのか、

興味はどうやらそちらへ向かってしまったようです。

道灌は文武両道に秀でていたという、

それは実父の扇谷上杉家家宰太田資清(すけきよ)の影響が

大である、

資清は若年より文武に励んだ優れた武将で、特に歌道に優れ

法名を道真(どうしん)と名乗るほど菅原道真公を慕って

いたのだろう。

古河公方との戦いのために、太田道真・道灌親子は

河越城、江戸城を築き、

道真は河越城に、道灌は江戸城に居を構えたのである。

戦の経緯は歴史家にお任せするとして、文才の面から

太田親子を追ってみようというのがこれからの旅の

きっかけになるのです。

父太田道真が河越城で宗祇・心敬らと連歌会を催すと、

道灌は、心敬らを招き、江戸城で歌会を催す。

さらに道灌は、詩人であり茶人でもあった禅僧万里集九を

江戸城に招き、梅林の香りに包まれた城内に『梅花無尽蔵』

と名づけた屋敷を与えたという。

道灌は生涯三十数度の戦をしたという、

ひとの生き死にを目の前にして心が休まることは

なかったのだろう、

そんな戦に明け暮れていた中で、束の間の穏やかな日々を

この梅林の中にあった万里集九の屋敷を訪ねたことが

あったのかもしれない、

心静かに茶をたしなみ、どんな話をしたのだろうか・・・

その当時、高齢となった父道真は隠居して自得軒(越生町)に

閉居していた、

今も当時も越生は梅の里、この親子は余程梅に縁が

あるのかもしれない、

道灌は後に、万里集九を伴って父のいる越生の自得軒を

訪れている、

しかし、その訪問が親子の最後の別れになるとは想像だに

していなかった、

その自得軒を訪ねるには今盛りと咲く梅の季節がいいように

想われるのです。

菅原道真は己の想いを梅の花に託していった、それから五百年後、

太田道真・道灌親子は人の世の無常をやはり梅の花に託した。

それからさらに五百有余年の刻が流れた、

その時代を生きた人々の姿はもうどこにもない、

しかし、梅の林の中に身を置くと、それぞれの生きた人たちの

つぶやきが聞こえる気がするのです。

  梅園に草木をなせる匂ひ哉    心敬

    庭白妙の雪の春風     道真

  鶯の声は外山影さえて     宗祇

    野辺にうつれる道の春けさ 中雅

文明元年(1469)春、太田道真が河越城に心敬や宗祇ら

連歌師や禅僧らを交えて連歌会を催した、

所謂『川越千句』と呼ばれる歌会でで詠われた連歌である。

 世の中に鳥も聞えぬ里もがな 

  ふたりぬる夜の隠家にせむ  道灌

まるで武人としての己の行き先を暗示していたかのような

哀しみが伝わってくる、

梅林坂で歌だけを残していった鬼才たちの声を聞く旅の途中です。

明日は越生を訪ねんかな。