久しぶりに母校を訪ねた。

半世紀も前、大都会の真ん中の小高い岡の上に建つ

木造平屋の教室の窓からあの東京タワーが少しづつ

高く聳えていくのを毎日眺めていた。

確かだるまストーブの周りに置かれた弁当箱が温まり

沢庵の匂いが教室中に充満する頃に、東京タワーが

完成したはずである。

今もあの時の沢庵の匂いとともに鮮明に蘇ってくる景色が

つい昨日のように思われる。

校庭の広さは何も変わっていないのにその校庭を取り巻く

ぐるりは全てビルに囲まれてしまっていた。

この校門の前から確認されていたテレビ塔は三本、

目の前のNHKのテレビ塔、岡の下の赤坂TBS、麹町のNTB、

やがて東京タワーにとって変わられた三本のテレビ塔は地上から

姿を消した。

変わらぬものなど残らないこの大都会で、せめて残るものは

こころのどこかに引っかかっている思い出だけなのかもしれない。

この教室から毎日眺めていた東京、その日々変化していく姿を

どうしたら残せるのだろうか、

まだ少年だった二人の生徒がカメラに興味をもったのは、至極当たり前の

ことだったかもしれない、

越境通学で毎日話し合う友であったNと私はカメラを手に入れる算段を

企て始めるのでした。

お互いに頼るのは親父しかいない、

「将来、新聞社のカメラマンになるために今からカメラの勉強をしたい」

というのが、お互いの動機付け、

ところがNが手に入れたカメラはニコンF、私はペンタックスS2、

いづれにしても当時大学出の初任給の1年ないし2年分を

それぞれのドラ息子に投資してくれた両親父には今でも

感謝しておりますよ。

しかし、カメラだけあっても写真は写せないのです、

来る日も来る日も空シャッターを切るうちに、

どうしたらフイルムと現像代を捻出するかを考え出すのです。

教頭に掛け合って、「学校に写真部を作らせて欲しい」と、

人数が少ないので部は認められないが同好会ならという条件で、

二階への階段の下に暗室を確保、補助金をいただき

晴れて少年カメラマンが出来上がったのです。

その時の教頭の出した条件は、文化祭に作品を出すこと でした。

Nと私は、生意気にも大人たちの狂態が繰り広げられた跡の

銀座の朝を撮りに通い始めたのです。

来る日も来る日も、ネオンが消えた朝の銀座の路地裏を

彷徨っていたのです。

まさか50年後も、彷徨っているとはその時は思いもしなかったのですがね、

そのNももうあの世に旅たってしまいました。

まるで一度に押し寄せる走馬灯のように、次から次へとその当時が蘇る。

母校を後に、下り坂を歩き始めた。

三宅坂から桜田門にかけて懐かしいコースはほとんど変わってはいない、

「スタッ スタッ スタッ!」

まるで風が通り過ぎるように二人の少年が走り去っていった。

「ああ、今も此処はマラソンコースなのだ」

その小さくなっていく後姿に、Nと私の銀座へ向かう姿を重ねておりました。

私の手には小さなカメラが握られていた。

「お前だったら、今も銀座を写しにくるだろ」

全ての人生を抱え込んだ銀座の宵がそろそろ始まるよ・・・