立春以降の最初の午の日に稲荷社に参拝する初午祭は

五穀豊穣、商売繁盛を祈る庶民の切なる願いがこもっている

祭りなんです、

農家は五穀豊穣、商家は商売繁盛のご利益がある

と全国の稲荷社には参拝客がどっと押しかけたのです。

この初午も明治以降暦が変わって、新暦の二月の午の日に

初午祭をやるのが多くなってまいりましたな、

新暦二月はまさに冬本番、雪は降るし、風は冷たいし

とても春を祝う気分にはなれませんですよ。

今年はアタシが欠かさずお参りする王子稲荷の初午に代わって

浅草の吉原稲荷の初午に伺い、さらに

浅草の千束稲荷の初午は二月の二の午の日ですので、

二月十八日にお参りを済ませたのでございますよ。

二月から三月というのは、梅が咲き、桜が咲く季節、

お祭りも楽しいのですが、梅まつりや桜まつりは季節に合わせないと

見損なってしまうので、つい心が祭りから花へと移ってしまい、

祭りのことは二の次になってしまうのです。

ひょんなことから

「三月に初午大祭があるんだよ」

と栃木弁丸出しのおじさんから情報をいただきましてね、

早速、その教えられた稲荷神社へ・・・

浅草から何時もの東武電車に揺られ館林で乗り換え、

葛生行きの電車でさらに揺られて着いたのは田沼駅、

十年ぶりの再訪問でありますな、

十年前の印象は、閑散とした町の風景で、平成の大合併で

田沼の町も地図から消えてしまい、切ない気分で歩いた記憶が

残っておりましたが、駅を降りて稲荷神社へ向かうと

いやいやビックリ、どこからこんなに集まったのか

立ち並ぶ露店に楽しそうな参拝客の群れでありますよ。

(田沼一瓶塚稲荷神社)

赤い大鳥居を潜ると其処は「一瓶塚稲荷神社」、

アタシの大ファンであります平将門を征伐したというので

下野では大人気の鎮守府将軍俵藤太秀郷公が、天慶5(942)年

相州鎌倉松ケ岡稲荷大明神に詣で、下野国富士村に商売繁盛の

守護神として創建されたとか。

さらに、文治2(1186)年秀郷公の子孫佐野荘司讃岐守成俊公が

唐沢城再興の折り、富士村の稲荷大明神を現在の田沼の地に勧請

して、社領を寄進し佐野荘の総社としたことがその始まりなのだと

御長老の話に八百年の歴史が迫ってくるではありませんか。

こちらの初午祭は旧暦二月の最初の午の日なんだそうで、

今年は三月四日というわけで、陽気も春本番、いかにも春を

待ちわびていた喜びが溢れておりますよ。

ご本殿に参拝したあと、そのぐるりを巡ってこれまたびっくり、

破風飾りは見事な龍の彫り物、木鼻に龍頭、獅子頭等の彫り物の

見事なこと、氏子役員さんにお訊ねすると、あの日光陽明門を

作り上げた職人の手によるものだとのこと、しばし、口をポカンと

あけたままただただ見とれるばかりでございます。

参拝を終えて境内を出ると、相変わらずの人の群れ、

昔は植木市が行われていたらしいのですが、探してみるとたった一軒だけ、

なんだか浅草の植木市と同じ運命なのでしょうか、ちょっぴり寂しいですな。

東京近郊の祭りでは、露店商の数も減り気味ですが、どうやら

こちらの初午大祭は参拝客がその露天商の商いを支えてくれて

いるのでしょうか、まだまだその数は十分商いになるようですな。

名物を訊ねると、

「しんこまんじゅう」と返ってくるのでさっそく所望いたしました。

精白した田沼産のうるち米の粉と小豆を田沼の水で丹念に練って

作った饅頭は色白で、この初午大祭中に食べると無病息災で暮らせる

とか、さっそくひとつをガブリ!

もちっとした歯ごたえにほんのりとした甘さが、甘党おじさんには

堪えられない味でございました。

それにしても凄い人波でございますな、

平日の閑散とした田沼の町を知っているだけに、まだまだ信仰が生きている

のですね。

さらに子供たちの姿が目に付きます、

これならまだまだ祭りが廃れることはないでしょうね、

一時間に一本という電車を待っている間しばらく駅前を散策していると

妙な石碑を発見、

『日本列島の中心 「田沼町」』

「北海道最北端」と「九州最南端」からそれぞれ同じ距離となる

 日本海側地点と太平洋側地点を算出し、この二点を結んだ線の

 中間点「日本列島の中心」が田沼町に存在します。

なるほど、面白いことを探し出すものですな、しかしその肝心な

田沼町は平成の合併で佐野市に組み込まれてしまいました。

さて次はどんな妙案を考え出すのでしょうか・・・

頭を捻っているうちに電車がまいりました、

なんという長閑な気分でしょうか、

祭りを訪ねる旅もいいものですな・・・

(2016年3月5日記す)