ぶり返した暑さは夕暮れを迎えても衰える気配もない、

真壁祇園祭典の目はそんな暑さをものともしない

若衆の活気の中で始まったのです。

四百年も続くこの町の祭りの中に身を置くことこそ

祭りの何たるかを身体で感じ取ることが出来ると

何を置いても駆けつけてしまうのです。

祭りの主役は・・・

勿論この町が一番の敬意を持ってお迎えする神の御霊なのですが、

町に降臨した神を喜んでいただくために、人はあるとあらゆる

知恵と熱意を持って歓迎の意を示すために、お囃子を打ち鳴らし、

踊り、歓声をあげ続けるのです、その中心に居るのは何時の時代でも

若者なのです。

この若者達のエネルギーとはじけ飛ぶ活力こそが祭りそのものの姿

かもしれない、

太鼓が打ち鳴らされ、摺り鉦が悲鳴のように叩かれる、

笛の音が夜空に届けとばかりに響き渡ると、

その若者達の顔つきが変わっていく、

自らの体の中から湧き上がる力を抑えることが出来なくなった

若者たちは跳ね飛び、駆け廻る、

提灯を手にした世話人が、そのはじめ飛ぶ若者達が

これ以上羽目を外さないそのきわどい一線を見極めて

笛を鳴らし、元に位置へと引き戻す。

阿吽の呼吸とはこういう時に使うことだったのかと

思わず拍手が湧きあがる。

山車を押すというより、押しながら走り回る若者達の

底知れぬエネルギーはどこからくるのだろうか、

それこそが神から授かる力なのかもしれない。

周りで見つめる、世話人たちは、かつてあの祭りの中心にいる

若者達の姿に自分自身の若き日の姿を重ねている。

いつ果てるともしれない刻は永遠のように思われた、

四町の山車が町の一角に集まってくる、

それぞれに向かい合った山車の間隔が狭まると、

お囃子の叩き合いが始まった。

かつては、この山車同士をぶつけ合ったという、

そんなケンカ祭りも若者達の溜まりに溜まったエネルギーの

発散の場だったのですね。

まるで炎と化した若者達のエネルギーは

夜空を焦がすかのようにメラメラと音を立てて、

一気に燃え上がった。

誰かが仕掛けたわけではない、

しかし秩序と爆発が紙一重のところで踏みとどまっているその姿こそ

この町の祭りそのものだったのですね。

若者達の押し合う山車が何度も何度も町の中を駆け巡る

同じことの繰り返しのように見えても、十年前とは全く

異なる若者達の姿に変わっているのでしょう、

五十年、百年、いや何百年と引き継がれていく 祭り こそが

何時の時代でも 生きている証しなのだと

思い知らされた 祭り旅の途中です。

いつも、どんな時も、温かく迎えてくださる真壁の皆様に

こころからの感謝を申し上げます。

「真壁は本当に麗しい町です!!」

平成27年7月 炎暑 真壁にて