かつて日本人の生活には ハレ、ケ、ケガレの区別が

きちんと残されておりました。

ハレとは神聖なまつりや祝いごとをおこなうこと、

ケは日常の暮らし、仕事をしたり、恋愛などもケの中のこと、

ケガレは、死、出血、腐敗、汚物、不道徳な行為など

人間の生活にとって負の現象や行動のこと。

祭りを実際に行う者は、ハレの非日常生活に入るためには

清めによる心身の浄化を求められるのです。

それは神はケガレを最も嫌うと信じられていたからで、

神を里に迎えるためには、水による垢離を行い、火は特別に

きり火や火打ち石で発火させたものを使い、祭りの構成人は

浄衣を着る、それが『晴れ着』なのです。

まつりを行う場所はあらかじめ清めたおいた場所を、清掃し、

清水、白砂、塩などを撒く、そこは聖域として注連縄を張る。

すべてが清められたまつりの場に、神は降臨する。

神官の祝詞により神は まつり の挨拶を受け、願いを聞く、

そして神は人々に生きる命の輝きを与える。

その神との交歓こそ まつりを行う意義なのです。

神の御霊を運ぶ神輿が町屋に近づいていく、

上宿町の結界に注連縄が張られている、それは町の中は

清められていることのしるしなのです、

晴れ着に身を包んだ町の世話人、役人は神妙な面持ちで

神をお迎えする、礼の限りをつくすのです。

神をお迎えする町内は、休憩地を設定する、神に少しでも

身近で休んでいただくことが最大の喜びであるからなのです。

順繰りに五町を練り歩いた神輿はやがて、町内にある御仮殿に

到着される、神が休まれる三日間を人々は華やかに、楽しく感じて

いただくために、色鮮やかな飾り物や、衣装、踊り、山車等で

神に楽しんでいただくためにあらゆる歓待を捧げるのです。

この神に捧げる行為そのものこそ まつり の一番の本質なのですね。

神に近づくためにはケガレがあってはなりません、

それでは人間の中でケガレの無いのは・・・

それは子供そのものなのです、

稚児舞姿の女児などはその表れです、それでは大人たちは

どうして神の傍に近づくか、そのために、お面という変装を

施し始めるのはもしかしたら大人たちの切ない願いかもしれませんね。

面白く舞い、跳ねあがる姿を見て、神が笑ってくれたら・・・

まつりの行動は、すべて神の為に捧げることに費やされているのですね、

それは決して人間達の為ではなかったのです、

そう思ってみていると、神がかりした若者が無限のエネルギーを

蓄えているように感じ始めました。

それこそが、神の与えた命そのものなのに違いありません。

翻った幟は神の降臨した証(あかし)、

ひとつひとつの儀式の中に、先人たちが神と一体になるために

可能な限り知恵を絞って創り上げた願いの形こそが

『まつり』の本当の姿だということを、きちんと見せていただいた

真壁祇園の一夜のこと。

見物人もまつりの一部であるなら、神楽を舞う神人の背中越に

そっと見つめるくらいのご利益を受けても罰は当たらないでしょう・・・

確かに聞こえた笑い声は 神の声に違いない、いや、そうだと

信じられた昔町の夕暮れです。