旅の記憶

(嗚呼!阿蘇が見える!)

明治生まれの義父は筑後川の辺で生まれ、広い大空に夢を託して

青年時代を過ごしていた。

その空への憧れは何時しかグライダー操縦という日本の滑空界へと

のめりこんでいったのです。

日本の滑空界は九州大学助教授の佐藤博先生と九州航空会の前田健一氏

によって始められた、

昭和7年4月25日九大工学部裏の箱崎松原で試験飛行が行われ、

高度30m、約1分の飛行でした。

この時操縦桿を握っていたのが義父志鶴忠夫でした。

(久住連山)

昭和7年鉄輪温泉に近い十文字原から別府海岸までを志鶴氏が

九帝三型機で飛行します。

飛行距離7km、飛行時間8分30秒これが当時の日本記録となりました。

昭和8年杵島岳(標高1300m)から大観峰まで滞空時間20分の日本記録

昭和9年9月11日久住山上の肥前ケ城(1650m)から九帝五型機で離陸、

滞空時間1時間26分10秒の日本記録樹立

昭和10年9月阿蘇外輪山の大観峰西方(標高940m、

阿蘇盆地からの高度差約400m)から離陸、滞空時間3時間4分

昭和11年1月九帝七型機は、志鶴氏が日本帆走飛行連盟の教官として

大阪生駒山で9時間23分という、当時としては驚異的な滞空記録をつくります。

冒険家でもあった義父の操縦で利根川上空を飛んだ日のことは今も鮮明に

心に刻まれています。

その冒険家の義父は今ふるさと筑後川のほとりで最愛の母上のどんな話を

しているのでしょうか・・・

母親に瓜ふたつになった鬼姫様と、両親と兄の眠る墓所へお参りを済ませると、

今回の旅のもう一つの目的地久住高原へ向かう、

「オヤジさんの滑空日本記録樹立の記念碑が建てられたらしい」

と知ったのは三年ほど前のことでした。

いつか、鬼姫さまと一緒に行こうと決めていたのです。

スマホを持たない老夫婦の旅は、あっちでお聞きし、

こっちで教えられながらやっとたどり着いたのは

久住高原のグライダー滑空場、

誰も居ない高原には秋の風だけが吹き抜けていた。

もう訊ねなくてもわかりました、久住連山を背景にして

「空へ」と刻まれた記念碑には懐かしい義父の顔が

真っ直ぐ空を見つめていた。

鬼姫さまはその父の顔を優しく撫ぜ始めていた、

「父はこの空を飛んだのですね・・・」

その記念碑にはこう記されていた、

『1934(昭和9)年9月11日 久住山肥前ケ城山頂から翔びたった九帝五型滑空機

「阿蘇號」は1時間26分の日本記録を樹立し 山岳滑翔の先駆をなした 九州帝国

大学 佐藤博先生の設計前田健一氏の製作 志鶴忠夫氏の操縦技術が一体となって

快挙を成し遂げ これを契機に我が国のグライダー界は飛躍的に発展した。 

少年時代 その飛行を目撃した久住町白丹出身の九州工業大学 本郷英士先生が山岳

滑翔の聖地とすべく1970(昭和45)年ここに滑空場を誘致開設した。 

久住滑空場開設30年の節目と21世紀を迎えるにあたりグライダーに情熱を燃やした

先人達の努力と功績を顕彰しその夢を継承するためここに記念の碑を建立する

 2000年5月』

「父上がこの大空を飛んだのは27歳だったんですね」

晩年、若者達にグライダーの全てを教える仕事をしていた、龍ヶ崎飛行場、

霧が峰高原などでグライダーを飛ばすために行き帰りの車の免許証が必要になったと、

60歳を過ぎてから運転免許証を取得するのでしたが、

「ひとりで長野まで行く自信がない」と同行を頼まれ一緒に出かけたことなどが

走馬灯のように浮かび上がるのです。

鬼姫さまと並んで空を見上げていると、大空を風を切って飛ぶ父上の姿が見えた気が

しておりました。

「どうか長生きしてくださいよ」

鬼姫さまに声を掛けると涙を流しながらゆっくり頷くと再び空を見上げた、

さあ、二人で旅を続けましょう・・・

(2015.10.14 久住高原にて)