風も吹くなり

    雲も光るなり

    生きてゐる幸福は

    波間の鴎のごとく

    縹渺(ひょうびょう)とたヾよい

    生きてゐる幸福は

    あなたも知ってゐる

    私もよく知ってゐる

    花のいのちはみじかくて

    苦しきことのみ多かれど

    風も吹くなり

    雲も光るなり

(小桜姫)

作家・林芙美子の呟きのような詩が思い出された、

  花のいのちはみじかくて

  苦しきことのみ多かれど

の部分ばかりが知られておりますが、

  風も吹くなり

  雲も光るなり

の方が希望が持てていいと思うのですが、

花を見ていると、それが桜にしても、薔薇にしても

ほら花菖蒲だって咲いているのはほんとうに短いものなんですね。

(長井小町)

花菖蒲は改良栽培された花の代表のようなもの、

大柄な花を開かせている姿を見つめていると、

その隣で萎んでしまった花と

どうしても見比べてしまうのですね、

美しいだけに、萎んだ姿が余計に胸を打ちますな。

ましてや、自分の一生を振り返りながらその萎んでいく花を

見つめているのはたまらないでしょうね。

花はただ咲いて、散っていくだけ と判っていても、そう思えないのが

人間というものなのでしょうね。

(羽陽の誉)

(日月)

アタシは無類の桜狂いで生きてまいりましたので、花の散る姿に

いろいろな想いを馳せてまいりました、

 散るさくら 残るさくらも 散る桜

良寛禅師のこの句ほどに達観できない凡人のアタシは、桜の咲くところから

散り始め、やがて葉桜になり、紅葉が始まりやがて葉を落として冬を越し、

そして再び春を迎えるサイクルを希望に結び付けてしまうのですね。

(野川の辺)

花の咲くのは、ほんの一瞬、その一瞬だけを追い求めると

希望には結びつかない気がしてしまうのです。

今年も花菖蒲が美しい姿を見せています。

このところ決まって訪ねるのは、大柄で豪華な花ではなく、

清楚で可憐な長井古種に目が行ってしまうのです、

なぜなら、咲き方も地味だし、主張しないその姿に

大きな期待を寄せないで済む気がするからなんですね。

(長井清流)

東京では滅多に出会えない 長井古種 を咲かせてくれて

いるのが しょうぶ沼の小さな菖蒲園なのです。

今年も楚々と咲いています。

長井清流 長井小紫、小桜姫も元気そうじゃないですか、

野川の辺に、郭公鳥、みんな静かにそっと咲いているのです、

目立たないだけに、散る姿を想像しなくてもすみそうなんですね、

それよりも、再会できた喜びの方が勝るのです、

(爪紅)

(長井小紫)

人間の持つ 期待と言うものは、大きければ大きいほど、失った

時はその失望感も大きくなるのではないですかね、

長井古種を見つめる度に、喜びと希望をもたらせてくれるのですから

小さな花の姿にも存在理由はあると思うのですね。

原種の花菖蒲に近い長井古種に永遠を見ていた花の旅の途中のことで

ございます。

(郭公鳥)