伊豆修禅寺を訪ねた旅から戻ると、もう一度

岡本綺堂の『修禅寺物語』を読み直してみる。

それにしても、権力に武力が直接結びついたとき、

なんと無残な結末が現れるのだろうか、

『修禅寺物語』を手に鎌倉を訪ねる、もちろん

あの怨念の比企が谷である。

源 頼朝が不慮の死で亡くなると、世情は俄かに不穏な様相を

かもし出すのは人間の歴史が何度も繰り返してきたことである。

二代将軍頼家を抱える比企一族と千幡(後の実朝)を抱える

北条氏との権力争いは、武力を手にする武士同士であっただけに、

陰謀、策略の果てその武力により比企一族は焼き討ちの炎の中に

消えた。

『吾妻鏡』では頼家の長男一幡もこの炎の中に消えた

と記されているのですが、

京都側の記録である『愚管抄』の中では、

一幡は母(若狭の局)が抱いて逃げ延びたが、やがて

北条義時に掴まり刺し殺されたという。

若狭の局は恨みを残しながら蛇苦止の井戸に身を投げて

しまったという、

それから50年の後、七代執権となった北条政村の娘に乗り移った

若狭の局は大蛇の姿でのた打ち回ったという

その若狭の局を哀れに思い、昔の屋敷跡に蛇苦止堂を立てて

供養した伝わっている。

久し振りに蛇苦止堂を訪ねる、静まり返ったその道には

はらはらと大銀杏の黄葉が散り、訪れる者を正面から見つめる

若狭の眼差しがヒシヒシと伝わってくるようです。

『修禅寺物語』を市川左団次の主演で明治座の舞台へあげて

喝采を浴びたのは岡本綺堂40歳、市川左団次32歳と時であった、

それからは、毎年一度、二人はこの蛇苦止堂を訪れていたという。

 『武運つたなき頼家の身近うまいるがそれほどに嬉しいか。

 そちも大方は存じておろう。予には比企の判官能員の娘若狭

 といえる側女ありしが、能員ほろびしその砌(みぎり)に、

 不憫や若狭も世を去った。

 今より後はそちが二代の側女、名もそのままに若狭と言え。』

岡本綺堂は頼家の言葉を持って、無念に散った若狭の局の悲劇の一生を

息女かつらの中に生き返らせたのかもしれない。

比企が谷を訪ねる度に、人の想いは簡単に消えることはないことを

つくづくと教えられるのです。

この比企が谷にはその後も多くの人が関わりを持っている、

万葉集の注釈に一生を捧げた仙覚律師(比企能員の甥)も、

この比企が谷の釈迦堂に入って権律師になったという。

『徒然草』の吉田兼好も少しの間ここに足を留めたという、

どんなに時代が移り変わろうと、人の想いはそう簡単には

消えることはないのです、そのことを此処比企が谷を

訪ねる度に何度も思い知らされる旅の途中のこと。