春の花には梅、桜、桃など、花の咲くのを待つ

ウキウキ感があり、心が前を向いていける気がしませんか、

永い冬をじっと耐えて一気に咲く桜にはどれほど

心を慰められてきたことでしょうか、その想いは未だに

桜を追う旅から抜け出せないほどなのですね。

さて、今は秋、秋の花にはなぜか切なさや侘しさが

滲むのは日本人の感傷的に成りやすい心のあり様が

投影されるからでしょうかね。

秋の花といえば、まず思い浮かぶのが

万葉集巻八に収められている

山上憶良の「秋の野の花を詠める歌二首」

 「秋の野に咲きたる花を指折り

   かき数ふれば 七種の花」

  「萩の花 尾花葛花 撫子の花

女郎花 また藤袴 朝貌の花」

 昔はそこら中で目にすることができた花々も、

特に都会では見にくくなってしまったのは残念なことですが

それでも花を愛でる心だけは失いたくないという方々が

江戸時代から続く向島百花園にやってくるのは、丹精込めて

手入れされた極上の秋の花を楽しむことができるからなのでしょ、

仕事先から時間を気にしながら訪ねると、何とか閉園前に滑り込む

ことができましてね、

 「人皆は 萩を秋と言ふ 

 よし我は 尾花が末を 秋とは言はむ」

        読み人知らず 万葉集 巻十

昔も、みんなが萩がいいと言っても私はススキが断然秋に相応しいと

大見得をきっていた人がいたんですね。

すすきのすっくと立ち上がる様に思わず擦り寄ってしまいましたよ。

萩はすでに盛りを過ぎいささか褪せた姿に裏寂しさが漂うのでありますね、

女郎花、藤袴は今が盛り、朝貌は多分桔梗のことではないかと意見が

分かれるそうですが、朝顔よりは桔梗の方が秋の雰囲気は漂って

いるようには感じますがね。

そういえば昔読んだ本に女郎花の物語がありましたよ、

『平城天皇の時代、小野頼風という男が京の女と契り、
 行く末を約束したのですが、頼風は女を捨てて国元へ
 帰ってしまった。男を信じていた女は、頼風の住む
 近江八幡まで訪ねて行った。
 そこで女は頼風に妻がいることを知る。
 世をはかなんだ女は八幡の川辺に山吹がさねの衣を
 脱ぎ捨て川に身を投げてしまった。
 やがて衣は朽ち、そこから黄色い花が咲き始めた、
 その花は女郎花と呼ばれるようになった。』

現代なら刃傷沙汰になるでしょうが、なんだか女郎花を見るたびに

大和撫子の切なさを感じてしまいますよ。

秋の花は七種に限るわけではありませんで、

芙蓉、晒菜升麻(サラシナショウマ)、シオン、水引、吾亦紅、

紫式部に名月草、中には冬を思わせる シモバシラなど、

先人たちは、花の名前にも繊細な感覚を持ち続けて

素敵な名を残したのですね。

いつもの茶店で贅沢な喫茶去、

芳しい香りと秋草の彩りに秋を満喫する散歩の途中でございます。

(向島百花園にて)