毎日、下町の路地裏を徘徊しているおじさんには

まったくと言っていいほど関係のないのが『哲学』ですよ、

「ものごとをそんなに四角四面の枠掛けて考えられねーぞ」

ってのが、ガキの頃から浅草で育った者の普通の考え方でしてね。

どういう風の吹き回しか、近頃下町を抜け出して、東京の山の手と

言われる町を歩き始めましてね。

そりゃ、いつも浅草だ、深川だ、向島だじゃしまいには

飽きられちまいますでしょ。

どんよりとした曇り空でも、風さえ吹かなければ花を見るのには

絶好の日和でしてね、

遅れていた梅の香りに誘われてやってきたのは井上円了博士が

精魂傾けたという「哲学堂公園」。

その園に足を踏み込もうとして足がピタリと止まりました。

入り口の門に掲げられていたのは

 『物質精気凝為天狗』

 (物質の精気凝りて天狗となり

  心性の妙用発して幽霊となる)

こんな聯が掲げられており、その門は哲理門というのだと

いきなり言葉の刃で胸を一突きされた気分ですな。

あの、あたしは梅の花を見に来ただけなんですが、

と言い訳しながら園の中に足を踏み入れると、

木造平屋建の四聖堂(孔子と釈迦、ソクラテスとカントを祀る)、

木造六角塔の六賢台(聖徳太子・菅原道真、荘子・朱子、龍樹・迦毘羅仙を祀る)、

二階建・瓦葺の無尽蔵、木造平屋建の宇宙館、

木造二階建の絶対城、さらに髑髏庵・鬼神窟・・・

おどろおどろしい名前にもう思考まで止まったままですよ。

宇宙館の横で香りを漂わせているのは梅の花、

ところが名前が『幽霊梅』、

何でもこの梅の下から幽霊が現れるとか、

あんたね、下町じゃ幽霊は柳の下に現れると

相場は決まってるはずですよ、

哲学とはやさしく言えばわかりやすいのに、

わざわざ言葉をひねくり回して

難題に変えてしまうものかな。

あまりの衝撃に、公園のベンチにへたり込んでいると

そこは『意識駅』で、標識に

「丘上に達した感覚者は、ここでひと休みして

 認識路と直覚径を観ながら種々想念されたい」

やれやれ、そう何から何まで命令されると、

口もカラカラに渇いてしまいますよ。

よろよろと立ち上がって歩き出すと、またもや標識が

「もし、丘上の論理域に至らんとするのに、

 直覚径をさけて、よく事物を知覚し

 推理して、落ち着いて登らんとするならば、

 この路を選べばよい」

アタシは逃げるように階段を駆け下りると、そこは池、

向こうの島は理性で、そこへ渡るには概念が存すというのか、

橋の名は「概念橋」、

よろよろ渡ってたどり着いたのは理性島、

なにやら理性を取り戻してその場の石に手を突けば、

その石は『鬼燈』、

「人の心中に宿る鬼にも良心の光明は存する」

とある、下町だってこういいますよ、

「鬼の目にも涙」ってね。